ムカーし、流行りましたな。
バトンってやつ。
そいつが流れてきましたの。
日本中のお父さんの羨望を集めるこの方から。
しかも、ワタイの影が見える記事希望と。
いいザンスよ、承知。
我が母と中沢さんの話を書くザンスね。
ブルーハワイザンスよ。
なに言ってるのかわからないざんしょね?
皆さんご存知のブルーハワイ。
あれを作った人が母の友人で
ワタイの母が、
世界で最初にブルーハワイを飲んだ人なんザンス。
ここでもう一度、バトンを投げてきた
たまパパ (id:tmja) さんのことを軽くご紹介しましょう。
なんか、世界のお父さんの理想形みたいな人ザンスな。
出自良く、教育よく、稼ぎよく、子煩悩。。
ほんまに、こんな人おるんかい?
という方でございます。
で、一応マナーとしてバトンの形式を。
当ブログは、何人かで書いております。
今のレギュラーは長崎の青さんと私。
まあ、責任は私が取ります。
この写真はネットの拾い物ザンスけど、
あまりにもワタイの若い頃に似てるので採用。
で、最初の記事?
chuff.hatenablog.com
オススメの記事?
やっぱこれザンスかね。。
まあ常々ふざけておるのですが。。
でね、マトモな方からバトン貰うと
適当にシモネタかいて終わりとはいかんじゃないですか?
そこで、ブルーハワイです。
で今回調べてみたのですが、ネットにはありませんなあ。
ですので、これを読まれた方は歴史の裏を知ることになるザンスな。
私の母は、戦前にテーラーの祖父を亡くしておりまして。
祖母はかなりハチャメチャな人であったこともあり、
中卒後町の工場に働きに出るのです。
時は戦後まもなく、いろいろあったのでしょうな。
すぐに仕事を辞め、夜の街で生きていったのですね。
で、その時の同僚が中沢さん。
バーテンですな。
私もこの方からお年玉をもらった記憶があります。
20年くらい前までは現役でバーをされておりました。
でこの中沢さんと母は、闇タバコの売人から
洋モクをかすめ取り、別の売人に売ると言う小遣い稼ぎ。
泥棒と言えばそうなんザンスけど、当時はそれが当たり前。
もともと御禁制の闇タバコですので、誤差なわけですな。
まあ、戦後の日本の実に陽気なだまし合い。
映像の世紀では出てこない、戦後の一幕です。
そういう混とんとした時代に、
中沢さんはカクテルコンテストに出ることになります。
で、この人が作ったカクテルがブルーハワイ。
そして、その試作品を初めて飲んだのが母となるわけです。
ですので、世界初!
これでアメリカのカクテルコンテストに出場。
当時は勝ち抜き戦。
あと一回で決勝戦に出られる!
その時出会った相手が
あの、マルガリータ!
「8マンちゃん、こっちはさ、憧れのハワイ航路なわけよ。向こうは死んだ恋人の名前ってんだから、カッコいいわな。そりゃ負けるさ。まあ、俺のは貧乏くせえカクテルなんだな、ってその時は納得したもんだよ」
中沢さんのお店で、ブルーハワイをいただきながら聞いたのですね。
その中沢さんも鬼籍にはいられました。
今でもそのクールな雰囲気を思い出すのです。
バーテンダージャケットを着る前に、
中沢さんはカウンターにたたきつけるのですね。
「その日に入った皺ってのはカッコいいもんでさ、そのまえに糊を聞かせてパリッと仕上げてから皺を入れるんだ。フレッド・アステアも、そう言ってたよ」
「カクテルは、グラスが汗をかく前に飲み切るもんだよ」
「バーで女を口説くなよ。口説いた女を連れてくる場所なんだからさ」
中沢さんからはいろいろ教えていただきました。
彼と話をするときの母は美しく、まさに女でした。
二人がどういう関係だったのか、今となっては知る由もありません。
「バーで聴いたことは忘れる。それはマナーだよ、坊や」
暗く、何もない時代。
そう思っていた戦後の世界。
でも、彼らの話は明るく、アナーキーでハチャメチャで。
まるで上海バンスキングの世界でしたねえ。
いつの時代にも裏の世界があって、
表の世界とは異なる物語があるわけザンス。
これを読んでくれた方が、どこかでブルーハワイを見かけたら。。
そっと思い出してもらえればうれしいザンスね。。
さて、バトンザンスけど。。
誰に送りましょうかねえ。。
せっかくだから、海を越えましょうか。
LAで生活しているオレンジさんにお願いしましょう。
オレンジ (id:mata1)さんは、日本人です。
モノづくりをされておるようですが、フェアレディ240Zにお乗り。。
しかも、カタナの限定車両である1000にもお乗り。。
まあ、いろいろされておる方です。
ブログ上でお知り合いになったのですが、
多分引き受けてもらえるかと。。
で、このテンプレはっときますね。
さあ、バトンよ!
海を渡りなさい!
受けてくれると思うから!
(さあ、ブルー・ハワイを飲むたびに、この話を語り給え!でクリック!)