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島原の乱の背景 青さんの天草への旅その10

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天草への旅。

キリシタンうんぬんは、あの戦へと。

古戦場あとに向かう青さん。

 

chuff.hatenablog.com

 

島原の乱の発生には諸説あり、

宗教戦争と言うには無理があるわけで。

戦争というのは常に経済行為。

ある視点から、青さんは切り込みます。

さすが社会派!

 

ではさっそく!

 

 

===========

 

富岡城

天草下島の北部、苓北町の海岸に

ぴょこっとくっついている

富岡半島にある城跡ですが、

大変面白い場所です。

 

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まず、この富岡半島が面白い。

陸繋島、という言葉をご存知でしょうか。

私はこれを書くために

調べるまで知りませんでした。

 

簡単に言えば、元々は島だったものが

砂の堆積した「砂州」でつながって

半島化した場所です。

関東で言えば江ノ島

関西なら潮岬がそれです。

 

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アップだとこうなります。

砂州の部分を走っていくと、

左右には民家が立ち並んでいます。

地震が多い場所ではありませんが、

ある程度地盤がしっかりしているのかなと思いました。

 

案内に従って進むと、

正面の丘の上に白い復元城跡が見えました。

海が見えるロケーションも相まって、

大変美しいのですがふと頭をよぎります。

 

あれ?

どこかで見たことがあるぞ…?

これ、多分私は「唐津城」と

似ていると感じたのだと思います。

 

chuff.hatenablog.com

 

寺沢広高唐津を拝領し、

後に天草を加増されるんですが、

唐津城を作ったノウハウを

富岡城に使ったんだろうと推察されます。

印象が似ていると思っていたら、

後に資料館で「寺沢広高が云々」

という資料に触れてゾクゾクしました。

 

この富岡城は古戦場です。

島原の乱」の天草戦線がここ、富岡城でした。

 

 

島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起 (講談社学術文庫)

島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起 (講談社学術文庫)

 

 

島原の乱に関しては、

天草四郎時貞をリーダーに

蜂起したキリシタン

というイメージでも良いんですけどね、

 

私は違うと思います。

 

 

当時、島原の領主は松倉重政

彼は徳川に忠実であろうとしたのでしょうが、

そうすると出費が大きくなるわけです。

無い袖は振れませんから、

無理やり捻出する必要が出てきます。

 

よっぽど絞ったんでしょうねぇ。

いろんな資料に

 

「あの乱は松倉がやりすぎたから起きた」

 

と書かれているらしいので、

当時の標準からしても

過剰だったんでしょうね、色々と。

 

同時期の寺沢氏が拝領した天草は、

4万2千石という課税標準額なんです。

ところが乱の後、

天草の石高は2万1千石になるんですよ。

 

これもわかりやすくしてみましょう。

社会保険やら所得税が、

年収の倍額を基準に算定されたとしたら

皆さん、どうですか?

当時は五公五民あたりでしょうから、

負担はもっと強烈だったことでしょう。

 

 

2030年からの警告 社会保障 砂上の安心網

2030年からの警告 社会保障 砂上の安心網

 

 

10石の収穫がある田んぼに、

20石を基準で税がかかる。

五公五民として計算すると、

手元に何も残らないということになります。

 

収入が10万円

所得税は50%。

でも帳面上は20万円にされておるのです。

じゃあ、税金は10万円

ということになりますね。

 

ああ、これはもうやるっきゃナイト!

飢えて死ぬぐらいなら

自棄のやん八、という

お決まりのパターンでありますな。

 

 

 

テロリズムの心理学

テロリズムの心理学

 

 

もちろん、キリシタン弾圧の影響も

あったとは思いますが、

島原の乱の最大の原因は

重税による放棄という側面が大きかった

のではないかと私は思っています。

 

税金ってのは、いつの時代も

政変の原因になりやすいものですよ。

 

とどけ、この思い。

 

島原の乱の主戦場は原城

これは島原半島にあります。

 

ここ富岡城は、少ない手勢で

寺沢氏側が叛徒から守りきった城であります。

私は以前、どうしてもっと守りやすい

富岡城じゃなくて、原城に籠もったんだろう?

と疑問をいだいていました。

なるほど。

富岡城は落ちてなかったんですね。

 

唐津藩の飛び地なので、

さほど多くの城詰めはいなかったはずです。

地の利を生かして

なんとか凌ぎきったんでしょう。

 

 

 

 

 

行ってみてわかりますが、ここは攻めにくい。

先程解説したように、

陸路で攻めるには砂州を行くしか無い。

当然、そこに重点的に

火器が降り注ぐようになっているでしょう。

三方が海、砂州方向にも

袋池という堀を作ってあって、

難攻不落の城となっております。

 

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復元された白壁を右に見て、

左側に袋池を見ながら

緩やかに登っていくと、

アスファルト舗装された駐車場があります。

ここには食堂があるようでした。

 

できるだけ日陰に停めようと

場所を探していると、

店内から妙齢な元お姐さんが出てきて

 

「もっと上まで行けますよ。上の駐車場はここより狭いけど、今日は大丈夫だと思いますよ」

 

ここに停めさせておけば、

帰りに何か食っていくかもしれないのに。

なんて親切な元お嬢さんだろうか。

 

シールドを上げて、

「ありがとうございます」

と例を言い、上の駐車場を目指した、

といったところで本日はここまで。

それではまた。

 

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当時九州は、西軍系浪人が

ごまんといたようですね。

 

戦略的には、キリスト教国からの援軍待ち。

天草四郎が勝っていれば、

我が国はえらいことになっておったはずですなあ。

 

島原の乱を「弾圧されたキリシタンの蜂起」

と書いたのは誰ザンス?

いろいろ裏があるお話であることは

間違いないザンスよね。。

 

で、そのキリスト教国家は来なかったわけで。

なぜだとお思い?

徳川が裏で、交渉していたと考えるのが妥当でしょうな。。

 

(昔も今も、常に経済の流れの中で何かが起きる。そういうものでクリック!)

 

江戸の外交戦略 (角川選書)

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徳川後期の学問と政治―昌平坂学問所儒者と幕末外交変容

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