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あらためて学歴を考える

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学歴の中に、出身校が関係ないのはなんらかの資格試験だけである。

大卒、高卒、などの条件は学校がどこでも同じである。

医師国家試験でも、医学部の大学名は関係ない。

 

私は学歴主義者ではない。

いや、なかったというべきだろうか。

  

chuff.hatenablog.com

 

人生を終わりかける年令に達して

「頭の良さ」というのは何なのかを最近整理している。

そこで判断するファクターは、確率的に「学歴」に寄っていく。

正確に言うと「学歴」ではない。

大学歴である。

個人的の思うには、大学のランクは決して変わっていない。

難しくなった大学はない。

難しいところは昔から難しい。

 

卒業したかどうかは関係ない。

入試を突破できたかどうかが重要である。

 

この事実は個人的には認めづらい。

しかし認めなければいけないように思う。

それはなぜか?

入試。たかが入試である。

万人に向けられた、かなり平等性の高いものである。

それさえ突破できない頭かどうかである。

入試は、ある程度「頭の良さ」を高確率で判断できる事実がある。

それを、大ぴらに言えない時代が今だと言うだけである。

 

 

こんな危険な話題を書こうと思ったきっかけはこれ。

 

anond.hatelabo.jp

 

ツィッターで流れてきたこの記事。

これを読んでほしい。

いろいろ意見はあるだろう。

コメント欄にもいろんな意見がある。

 

 

なにも、受験に限ったことではない。

ただ、比較的受験はまだ平等なものだといえるだろう。

この意見に反論もあろうかと思う。

それを承知で今回記事にしてみたい。

 

 

 

 

 

情報は開かれているのか?

私から見れば常に情報は独占されてきた。

それはどんな分野でもそうなのだ。

金持ちには金持ちの、貧乏人には貧乏人の。

ヤクザにはヤクザの、勤め人には勤め人の。

あらゆる世界の真の情報が、外部に流れることはない。

これは情報がクローズドであることとは関係ない。

各分野のデフォルトが異なるのである。

生きている文法が異なるのだ。

文法が異なれば、理解できるはずもない。

そもそも、何が問題かも所属する集団によって異なるのだ。

エンコードが異なるものを、読むことはできない。

ただの意味のないバグった文字の羅列に過ぎないのである。

 

インターネットの普及は、急速な情報回路の普及でもあった。

しかし、情報というものは、暗号のようなものである。

相互にそのコードを理解できなければ意味は通じない。

 

ここでのテーマは受験である。

しかし、受験が全てではないのは自明の理である。

技術を磨くもよし、体を張って生きてゆくのもよし。

そこで大事なのは適性である。

個人の能力がどの方面に可能性があるのか、

その判断を誰かがしなければならない。

本人の場合もあるだろうが、通常は家族が行う。

となれば、家族の判断能力が情報の開かれ方と関係しているのであろうか?

答えはイエスである。

 

本人自身がその選択をして、エンコードを理解してゆくことも可能だとは思う。

しかしそれにはハンデが伴う。

スタートは明らかに異なる。

これは教育や政治の問題ではないように、私個人は思う。

ではなんなのか?と問われれば、運としか言いようがない。

その運が無い場合、本人自体にかかる負担は大きい。

それに耐え得るか否かもふくめ、これまた天性という運である。

 

運というものが、一般的な「幸運」を意味すると考えるのは無理がある。

強いボクサーは貧しい地域からしか出てこない。

サッカーが世界に普及したのは、ボール1つで始められるイニシャルコストの存在が大きい。

 

一方、F1のレーサーが貧しい家柄からも出られたのは遠い昔のことである。

モーターレースの世界は、親の資本力によるところが大きい。

これらを含め、全てが「運」である。

そして、そこには情報が密接に絡んでいる。

 

情報は開かれている。

しかし、その情報を自分で獲得することは、不可能ではないが困難である。

私は、そう考える。

 

 

情報を理解するのは概念の理解だ

日本人は苦手なこととして「定義する」ということがある。

そもそも「定義」ということを理解できてない人も多い。

私がこの言葉を知ったとき、実は全く理解できなかった。

『定義』は私の能力を、当時は超えていた。

多分、私の周囲に「定義」に近いことを言う大人がいなかったのだろう。

 

「定義」も概念である。

 

感覚で何となく分かる、ということではない。

厳密に理解する必要があるのが「概念」である。

もっと簡単に長ったらしく言うと

 

人間が思考より生み出した、壮大な意味合いを含む考え方を、あまりに面倒だから短い言葉で表したもの。それが概念である。

 

 

故に実態はない。

では「定義」とはなにか?

様々な分野で一応あるのだが、これもまとめてしまおう。

 

ある概念を他者と共有するため、あるいはその概念を発展させるため、論理的矛盾を回避して、その意味を確定させること。

 

ここまで読んでくれた方々に感謝である。

つまり理解できているのだと思う。

私が使っているレベルのエンコードに対し、拒絶されていないのだと思う。

しかし、多くの人は何を言っておるのか既にわからなくなっていると思う。

それに悲観はしないが、現実であるという理解は、暗い気持ちにさせる。

その理由は、我々の社会が「このレベルの文章はわかる」として成立しておるからである。

では、わからない人には社会は何もしないのであろうか?

 

私の知る限り、何もしない。

さらに言えば、なにかしても相互に伝わることはない。

 

感覚で理解して生きてゆくことも可能だと思う。

それで財を成す人もいるとは思う。

ある幸福を現実化する人もいるだろう。

ここで大事なのは、常に確率であるということ。

そして確率というものも、これまた概念なのである。

そこには定義があり、長い歴史がある。

概念の理解には、ある程度の「頭の良さ」が必要となる。

理解できない人は、誰かの説明に頼ることとなる。

その誰かが、それを果たせるかどうか。

ここでも確率的な「運」次第となるのである。

 

概念は環境によって現実とつながる

情報という言葉は、明治以降にできた訳語であろうと思う。

インフォメーションという情報が一つにあり、もう一つにはインテリジェンスという言葉が該当する。

 

インフォメーションとは、そのまま公開されて問題なく伝わる「情報」である。

電車が止まった。地震がおきた。祭りは何日だ。

こういうのはインフォメーションである。

 

一方、問題はインテリジェンスの方である。

アメリカのCIA。この真中の「I」はインテリジェンスの略である。

彼らが集める情報は、それだけではほぼ意味をなさない。

分析され、解釈され、推測され、現実に反映される。

つまり、その環境によって「情報」は価値を持ち始めるということである。

それらをインテリジェンスと呼ぶ。

 

この価値を有するようになって、情報は現実的意味を持ち始める。

今何をすべきか。

優先順位はどれが高いか。

行動の目的は明確となり、それに対してどうするか。

その場合のリスクと、打算。そして利益。

 

この場合でも「利益」という言葉は概念である。

金銭的なことを指す場合もあれば、優位性を示すこともある。

更に道徳的満足度となる場合もある。

これらすべてが現実として目の前にある。

それらがつながっているということを理解するためには、咀嚼される機能を持つ物が必要となる。大抵の場合、それは環境ということになる。

 

 

入門!論理学 (中公新書)

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世界は平等ではないことを前提に理解すべきである

ここまでついてこれたら、あとは楽勝である。

理解できる人と、理解できない人との差を認めたことになる。

なぜなら、この話を誰かにしてみればいい。

多分数分で分けのわからない反応をする人がほとんどであろうと思う。

それは仕方ないのである。

事実として、100メートル走って13秒を切れる人と切れない人がいる。

それくらいの差でしかない。

つまり、ありふれた話なのである。

10秒を切れるか否かではない。13秒である。

しかし、多くの人は切れない。

多分、私も切れない。そのレベルのありふれた話なのである。

 

それを前提として考えた場合、その差が問題なのであろうか?

個人的意見では違うと思う。

その「差」を承認しないことが問題なのだと思う。

 

人間が等しく平等であるという論理は、様々な起源があるらしい。

妥当な推論で考えると、西洋で発生した思想であろう。

その平等は、キリスト教徒に限定されていたはずである。

それが、どんどん拡大解釈されて、後にフランス革命で明文化された。

しかし、フランスがどうなったかと言うと、実に凄まじい階級社会である。

これは何を意味するかといえば、

 

「ということにしておいた」

 

という現実的妥協の産物であったわけだと言える。

よって、それを根拠とするのは、現実的とは言えない。

現実的でないことを前提にするのは、現実的悲劇と不幸の量産である。

この思索が間違っていなければ、『平等ではない』が前提として正しい事となる。

感情的には是認し難い。

しかし、論理的はそうなるのである。

これを認められうるかは、その人の能力次第となる。

 

ちなみに、釈迦はそこを諦めた思想を生んだといえるだろう。

仏教は正確には宗教とは言えない。

あれは、かなり過激な思想と呼ぶべきである。

 

 

大衆が理解するレベルを理解しない人々

テレビの情報番組を見ると、コメンテーターがいる。

彼らの存在意義は「少しは気の利いたことが言える」ことだろう。

そう、あそこに出ている人は平均より上だと理解すべきである。

 

彼らの発言を聞いていて感じるのは「扇動」ではないだろうか。

怒りであったり、義憤であったり、悲しみであったり。

視聴者は、もちろん彼らより能力が低い。

だからこそ、彼らの存在に報酬が払われるのだ。

そういう意味では、彼らもまた搾取しているのであろう。

つまり、そこそこ頭が良いのだと思う。

 

ということは、あれらの番組が視聴者の限界とも言えるだろう。

あれらを観てられない人は、そもそも視聴者ではない。

しかし、一定の視聴率を稼げているのであれば、あれが望む形なのだと理解する必要はある。

少なくとも、制作する側はそう考えている。

そしてそれは間違っていない。

余談であるが、目が覚めるほど頭の良い人は出ていない気がする。

自分の専門分野でも、本当に専門家が出てきたことはない。

彼らはわかっているのだと思う。

望まれている発言は、正しい内容ではないということを。

正しい内容を語り始めれば、視聴者の理解を超えたものにならざるを得ないことも。

 

とすれば、そのレベルの人に対して「概念」を提示し、理解を得ることは可能だろうか?

我々は、多くの場面で「理解を深めれば」と考えてしまうのであるが。。

理解を得るために、理解を深める。

この事自体が矛盾していることに気づかない。

 

 

 

民主主義は、フランスの「ということにしておこう」から始まった。

しかし、当時は王権と国民の対立が背景にあった。

少なくとも、あったことにしておいた。

事実は異なるが、一般的はそう思われている。

その二者択一の世界の中で、民衆側が勝った結果である。

その結果、民衆というものが『正しい』となって成立し、

最終的には共産主義国家が生まれた。

このつながりも説明をし始めると、また違う結果になるのだが、めんどうなのでそうしておく。歴史上、右派と左派が発生したのも、フランスが最初である。

 

フランス革命で民主国家が成立した。

それは民衆が正しかったからなのだろうか?

大衆というものが、一人ひとりの意見によって成立したのだろうか?

それは夢の形かもしれないが、現実はそうではない。

操作される側と、操作する側が存在したのである。

 

こうなってくると、反射的に拒絶してしまう人も少なくはない。

では、その拒絶はどこから来るのか?

我々は、知らずしらずのうちに、好き嫌いを論理的だと思いながら語り始める。

これをイデオロギーという。

イデオロギーは何らかの操作によって生まれる。

 

好き嫌いは自然発生ではない。

自然発生するものは、世界のどこでも普遍である。

親しくなると、人は笑顔になる。

そこにイデオロギーは存在しない。

あるとすれば、それは笑顔ではなく仮面なのである。

 

 

大きな誤解

人間には差があると確定した以上、我々は上に行きたくなるはずだ。

それはらゆる場面で存在する、優越感とも言えるだろう。

 

さてここらで本題に戻したいと思う。

大学入試に臨む以上、できればいい大学に行きたい。

しかし、そのための情報は平等ではないことは既に述べた。

では、どのレベルまでなら技術なしに行けるのだろうか。

 

具体的な名前を出すと問題があるので控えるが、通常全国区の名前が通る大学くらい出れば努力でなんとかなる。

それも努力できる環境があれば、であるが。

そして努力ができないという人は、戦うフィールドを間違えたのだと考えて良いと思う。

優越感を感じる場所を間違えたのだ。

ではどこでそれを行えば良いかと考えるだろうか?

正直、多種多様すぎて断定はできない。

ただ言えることは、先述したとおり受験はかなり平等な制度である。

完璧ではないし、理想でもない。

ただ、かなり平等である。

受かりさえすればいいのだ。

受かるかどうかは別として。

 

ではなぜフィールドを間違えるのだろうか?

それは何らかのイデオロギーのせいだろう。

単純な話である。

可能性のない勝負に挑めば負ける。

そういうことである。

 

そして、その勝負に出た以上結果は引き受けなければいけない。

つまり大学進学を決めた以上、その合格した学校によってランクは確定する。

事実、難易度の高い大学の授業はレベルが高い。

もっと言えば面白い。

大学がつまらない人は、別のものを期待していたのだろう。

大学がどういうところか、知らなかったのだ。

 

これも仕方ない。

自分でわかるわけもない。

環境が教えるものなのであるから。

 

現代認識論入門: ゲティア問題から徳認識論まで

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まとめ

You Tubeで大学レベルの勉強ができるという人がいる。

そう思うならそれで良いとも思う。

しかし、それがどのレベルなのかを判断する根拠はどこにあるのだろう?

自分がそう思うからなのだろうか?

 

自分が理解できることは、常に自分の限界を超えない。

そこを超えてゆくには、理解不能な世界に入ってゆくしかない。

経済を理解することと、焼き鳥屋で一発儲けるのは別のことである。

そこには貴賤はない。ただ差がある。

同じことではないのであるが、同じことだと思ってしまうことがよくある。

それもまたその人の限界なのであろう。

問題があるとすれば、その限界を知るか否かであろう。

 

最初に上げた「増田」の文章には創作の部分もあると思う。

彼女の無念は理解できるが、彼女の創作部分は分かる人が多いと思う。

自分をある程度追い込んで受験をした人なら分かる部分である。

ここで、その指摘はしない。

 

自分のフィールドを探すこと。

これは常に、自分の分を知るということだろうか。

突破できる場面と突破できない場面がある。

最後まで読んでくれた方々には、凡庸な結論で申し訳ない。

 

事実。

これは素直に認めるべきものなのである。

 

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