悲壮な空気が漂う、令和二年4月1日。
皆様いかがお過ごしでしょうか。
私の場合、Wi-Fi問題等ありまして
ちょっと更新やめたらすっかり怠け癖ついちゃって。。
量より質へのバトンは見事に落とされたのでありますな。
そう、このあたりでペースが落ちたのでした。
いけませんなあ。
でね、我々も大人ですから
やり始めた以上止めないのです。
ということで、青さんから論戦が持ち込まれました。
お題は「自然」とはなにか?
ではさっそく!
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世はまさに大エコロジー時代。
私もこのビックウェーブに乗ろうと思います。
乗るのは良いんですが、
エコロジーってのはなんでしょう?
自然を大切に、
ぐらいのことでいいんでしょうか。
そもそもこの「自然」という言葉は、
Natureの訳語としての当て字。
本来は仏教用語です。
少し調べると、道教の言葉でもあるようです。
自ずから然りということなので、
勝手にそうなっている、ということでしょう。
かなりイメージと違う言葉ですよね?
勝手に生える芋だから、
ヤマイモのことを「自然薯(じねんじょ)」と呼びますわな。
つまり、人為的なものではないものが
「じねん」だということです。
ところが、Natureが持っている意味は
もう少し範囲が広いわけです。
勝手にそうなっているもの、
というだけではないようです。
辞書で調べると、
本質であるとか性質であるとか
を示すこともあるらしい。
ということはですね、
例えばアマゾンや東南アジアの密林のような、
勝手にそうなっているものだけが「自然」なのか、
秩序ある植生である里山のような
管理されたものも「自然」なのか。
気になりだしたら止まらないので、
考えてみましょう。
ナンデ・マンゲ・ソンネン博士の言葉に
「万物は合理的に存在する。そこに、作為を持ち込むのはそれがどういう意図であれ破壊である」
というものがあります。
とにかくあるがままがいい、
ということでしょうね。
なかなか急進的な意見です。
もう少しマイルドな意見では
ワキヤスネ・ソリヤーノ氏の
「共存できる程度に自然を管理することが、より良く人類を自然の中に留まらしめる」
というものが有名なところでしょうか。
オイド・ケナイデ氏は
「自然が人類に好意的であったなら、我々はいまだ森の中にいるだろう。危険な場所までも保護すべきというのは、行き過ぎた考えである」
と指摘しました。
ソンネン氏とは逆の立場で急進的なのは、
ソラント・シロイ・ノアルデ氏。
21世紀初頭におきた論争の中で、
「枯れた街路樹がそのままにされないように、切り開かれるべき土地というのはある。どういう状態でも放っておくなどということは進化への冒涜だ」
と激昂したのは知る人ぞ知るエピソードでありますな。
何が何でも残せ、という意見と、
見苦しいものは処理すべき!
という意見の対立ですが、
世界の趨勢は後者です。
全体的にツルンとしてきております。
私は人それぞれ好みでいいと思うんですが、
このテーマを考える上で
思い出されるのは黒木女史です。
彼女は言いました。
「わたくし思いますに、女は脇毛でございます」
というわけで、それっぽく書いてきましたが
股の毛剃るか残すか問題でした。
希少性が高い時代なら
カワラケ(無毛)もいいと思いますが、
最近だとあまり処理していないほうが
良いじゃないかと思うようになりましたねぇ。
恥丘は青かった、
とのことですから、
そこはそれ分け入って行きたいところであります。
辛くても悲しくても春。
咲き誇る桜はやがて散り、
風を薄紅色に染めることでしょう。
例年だと酔いの中に幻想的なものですが、
今年はどうにも物悲しくていけません。
「止まない雨はない」
なんて、使い古された言い回しでも
身にしみるこの頃ですが、
実際そうだと思います。
もうすこし、もうすこし。
と自分を励ましながら、晴れる日を待ちたい。
そんな心持の新年度でありました。了
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自然。
この言葉に限らず、我々の言語。
知らぬうちにイメージが暴走しているのでございますな。
おフランスの言葉で「四月魚」というのがございます。
これポアッソン・ダヴリル(Le Poissond' Avril) と言いまして
つまりが、サバのことでございます。
この言葉をさらに日本語に訳すと。
釣られるバカ!
でございましょうかねえ。。
では皆様、サバー!
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