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世間なんて関係ない! って本当に?

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渡る世間は鬼ばかりだとすれば、

「世間なんて関係ない!」と叫ぶ人は、

このタイトルに違和感を感じるはずです。

 

でも、そうでしょうか?

感じます?

それ、おかしいから!って言いきれます?

 

改めて問われると、ちょっと自信なくなりませんか?

だって、鬼ばかりなんですよ。。

 

そこで、もう一度「世間」について考えてみましょう。

 

 

 

実は気になる「世間」

これねえ、いろいろ感情的な意見が錯綜してる分野ですよね。

ちょっと検索してみてください。

いろんな人が、エキセントリックに書いている文章ばかりです。

 

ということは、そこから一つ仮説を出せます。

 

実はみんなとても、

気にしてるんじゃないか、と。

 

気にしてないことは、「気にしてない」とはあえて言いません。

気にしてないのですから、気にも止まらないわけです。

気になるから、否定もしたくなるんですが、

一体何を否定しているのかさえ分からないもの、

それが「世間」というものじゃないでしょうか。

 

もともとの意味

これははっきりしています。

元は仏教用語です。

ちょっと話はややこしくなってきます。

仏教は、アジアで比較的発達しましたが、

それには、アジア特有の傾向があったからです。

それが何かというと、炭水化物の大量生産に向く、

比較的過ごしやすい気候です。

つまり、「米」だと思います。

この農耕生産力は、ものすごい人口爆発を生みました。

人口が増えるにつれて、土地が足りなくなってきます。

山谷を開拓し、食糧を備蓄するためには、

「群れ」となる必要が出てきます。

この「群れ」の中で、そのルールが暗黙の裡に自然発生します。

それが「掟」なわけです。

この「掟」は、明文化されません。

つまり、なんとなく伝わっているわけです。

そのなんとなく伝わっている集団は、境目が曖昧です。

でも、確実にそこにある。

それが世間なわけです。

これをベースに、アジアは発展していきます。

そして、その得体のしれないものを整理したのが、

仏教と呼んでもいいのでしょうね。

ですので、仏教が正式な意味で「宗教」と呼べるのかは、

ちょっとした疑問です。

近いものとして、「思想」と呼んだ方がいいかもしれません。

 

社会と世間

「社会」は明治期に、Society の訳語として初めて日本に登場した言葉です。

我々日本人は、この「社会」という意味を、知っているのでしょうか?

なんとなく知っているわけですが、なぜなんとなく知っているのでしょう?

 

それは、なんとなく知っていると「世間」が認めているからです。

これ、実はすごいことなんですよ。

 

あなたが知っている、私が知っている、のではなく、

「世間」が認めているので、知っていることになってるんです。

そう考え始めると、もうとてももやもやしません?

私はします。

 

そこで、「社会」のほうをはっきりさせましょう。

社会ってのは、個人が集合した集団です。

いいですね、分かりやすいです。

では「個人」というのは、なんなのでしょう?

ここも、みなさん知っているつもりですよね。

私もすっかり知っているつもりでした。

でも、それも考えてゆくと、かなり怪しいものです。

 

どうも、「だって、誰かがそう言ってたから」じゃないですか?

 

それは誰なんでしょう?

 

「個人」を成立させたのは、一神教

一神教は、まあ激しいですよね。

「まあまあ、双方に言い分があるんだから」とかないです。

なにしろ、自分の神様以外認めないわけです。

しかも、この一神教は、形式上「自分で選んだ」ことにされてるんです。

どの一神教にも、実際はどうあれ、

「これから、あんさんを私の神様と認め、他のを否定することにするわ!」

と宣言する儀式があります。

 

ここ大事ですよ!

 

その上で、その神さんの庇護が与えられるってわけです。

一神教が広まるにつれ、まあこれは形式上のものになっていきますが、

それでも一応残ってるんです。

形式というのは案外大事で、言い換えれば「契約」なわけです。

誰と誰の契約かというと、

「あなたと神さん」の二人の間での契約です。

 

ちょっとはっきりしてきましたね。

 

契約というのは、対等な関係で行うものです。

(一応はそういう形をとります)

ですので、個人は、神さんと、タメなわけです。

ここで、「個人の尊厳」とかいう発想が出てくるわけです。

 

ですが、先ほどの「群れ」である我々は、

そんな契約した覚えはないんです。

でも、確かに庇護は与えられ、どうにか生きているわけです。

契約した覚えはないのに、履行されているもの、

それが「世間」なわけです。

 

世間なんて関係ない!

もちろん、私も言ったことあるように思います。

はっきりとは思い出せませんが、表現はどうあれ、

多分言っていたはずです。

 

しかし、よく考えてみると、それを許してくれたのも、

これまた「世間」だったのだと思います。

 

「若いんだから、そういうこと言いたくなるよね」などと、

なんと寛容に受け入れてくれたことでしょうか。

これが「社会」であったならば、

 

「ああそう、じゃあ、こっち来るなよ!」

 

となるわけです。

いや、さすがに、それはちょっと。。

 

とか思いません?

 

この感覚は、私が「世間」から、

さほど離れていないことを示しているのだろう、

と考えるほうが妥当な気がします。

 

この「世間」の、もう少し小さなエリアのことを、

「空気」と、山本七平という人は呼んでいます。

 

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

 

 いろいろ批判もある人ですが、この本は名著だと思います。

特に若い人には読んでもらいたいと思いますね。

 

この、「空気」もそうですが、「世間」も含め、

否定できるものなんだろうか、という感覚が私には出てきました。

そもそも、否定できるような対象なのだろうか、という意味です。

否定できるということは、それと対等な自分のイメージがあったわけですが、

いや、それもかなり怪しいんじゃねえか、というのが私の今の意見です。

以前このような記事を書きました。

chuff.hatenablog.com

この話に出てくるシャーロットが、スタートラインなわけです。

「個人」を考えるならば。

この試練に耐えられる日本人は、

そうそういないんじゃないでしょうか。

 

まとめ

西欧を称賛しているのではない、ということはご理解いただきたいです。

しかし、今世界的にスタンダードになっている考え方そのものが、

この「個人」をベースにしているのであれば、

日本にそのまま持ち込むこと自体に、

かなり無理があるというだけのことです。

そこへの理解が必要だと考えるのです。

この、己の神以外は認めず!という思考は、

現代かなり批判されているとは思います。

しかし、その一方で、スタンダードと呼ばれる考え方も、

その思考方法の結果生まれたものである、

という矛盾が存在するわけです。

このことは、とても大切な視点でしょうね。

 

一般的な日本人は、どう言いつくろっても、

この世間とともに生きているはずです。

「鬼ばかり」の世間と喧嘩するには、

最低でも、その人の能力が卓越している必要があります。

とても簡単に言うと、かなり賢く、かなりタフでなければいけないということです。

もし、そうであれば、可能かもしれません。

いるとすれば、ごくわずかでしょう。

 

私は思うのです。

否定するより、利用した方が恩恵は大きいのではないか、と。

ここで言う恩恵という発想自体、「世間」的なのかもしれませんけれども。

ただ、「世間」はゆっくりと変化することも事実です。

なぜかというと、実体がないものですから、固定もされていないはずです。

 

どうです?

一発かましてみたくなりませんか?

 

(んで、結局何が言いたいのよ?与太話に決まってんじゃないですか!世間的にクリック!)

 

 

「世間」とは何か (講談社現代新書)

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「世間」という観念の呪縛―同調を促すシステム

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