マウンテンコースでもベンチを見つけた焚火の男。
そこで見たものは、意外なほど見慣れたものでした。
ではさっそく。
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そのベンチには、日の丸がついていた。
4年前のレースで亡くなった日本人レーサー、
松下ヨシナリ選手の名を冠したベンチだったのだ。
マン島では、レースで事故死したレーサーを追悼して、
その名を刻んだベンチを作る。
果敢にマン島にチャレンジしたレーサー。
しかも日本人のレーサー。
死して、魂はここに眠るのだろうか。
マン島で死んだレーサーに対する、畏敬の念は、
どのレーサーに対しても変わらない。
この島に来てみれば分かる。
彼らがいかに勇気と決意を持って走ったかを。
しばらく無言で見つめて、オレは手を合わせた。
それにしても、
亡くなったライダーを称えるのに、
なぜベンチなんだろうか。
本来ベンチってのは、
座ってくつろぐためのものなんじゃなかろうか。
しかし、その意味を知ってしまうとなんか・・・
座りづらいよね。
再び車に戻りオレ達は先へ進んだ。
次から次へとライダーが、
オレ達を追い抜いていく。
レースを観終わったばかりの彼らは、
当然熱い走りになっている。
とんでもなく飛ばしているわけだ。
それが、まぁ何とも気持ちよさそう。
目に映る景色は、日本では経験できない雄大さである。
こりゃ、たまらんだろうなあ。
と思っていたら、道路脇の柵が壊れている所があった。
ついさっき、ハッチンソン選手がクラッシュした、
まさにその場所のらしい。
路面にはタイヤ痕が生々しく残っている。
それを見ると、我に返る。
栄光は、このような事故と、
常に裏腹なのだ。
普通に道を走るオレたちも、
何かの拍子に、あっさり転んだり死んだりする。
それをオレは自分を含め、いやになるほど見ている。
オートバイは、儚い乗り物なのだ。
しかもここはマン島だ。
猫が鰹節を好きなくらいに、普通のこととして事故がある。
標高があがるにつれ、
少し霧が出てきた。
大きめの駐車場に車を停める。
ライダーはみんなそこへ立ち寄る。
それには訳がある。
そこにはキング・オブ・ロードと呼ばれた、
近くで見るとかなりリアルに作られている。
ジョイ・ダンロップは、
1976年から2000年まで、マン島TTを走っている。
戦績は、通算26勝。
“キング・オブ・ロード”と呼ばれるのも当然なのだ。
しかし、彼はマン島で死んだわけではない。
彼はエストニアの公道レースで死んだのだ。
因果な話である。
マン島における、彼の存在の特別性が分かるだろう。
先ほどのシニアクラスで優勝したマイケル・ダンロップは、
彼の甥っ子にあたる。
写真を撮ったりしながら過ごしていると、
霧がどんどん濃くなってきた。
気温もかなり下がってきた。
さっきまで観戦していた街中に比べると、
格段に寒い。
オレ達は車に戻り再びコースを走り始めた。
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敬意の表し方には、世界中にいろいろあります。
マン島のレーサーに対する敬意は、
いろいろ考えさせられます。
焚火の男が言うように、座るのは抵抗がありますね。
これ、日本人の感覚なんです。
「そこに座る」ってことは、
キリスト教的には敬意の表れでもあります。
西洋人は、「座る」ということが、
彼らの文化にはなかったんです。
ずっと、基本立ちっぱなしだったんです。
(だからパーティーとかでずっと立ってられるんでしょう)
やがて、椅子に座るという文化が根付きます。
これ、大体キリスト教の影響です。
座るという行為が、踏みつけるような不敬ではないんです。
これなんか読むと分かりやすいです。
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そこに座り、そして世界を見る。
それは象徴的な行為です。
彼らにとって、こういう椅子は、
のんびりするために座るわけではないのです。
もともと、休憩のために座る文化もありません。
それは日本人とアメリカ人くらいでしょう。
ここは、焚火の男は間違っていますね。
椅子というものに対する感覚が違うので、
それは仕方ないですけれども。
そこに座ること自体が、常に敬意であるわけです。
死者の見れなかった世界を、
今座っている人が見て、その人が死者を想う。
それは、死者の魂と並んで空を見ることなんです。
ですので、その魂の分の席があるので、
一人掛けではなくて、ベンチなんですね。
このとき、同じ天を見るという感覚だそうです。
座るということは、西洋人にとっては、
祈りの一つの形でもあるわけです。
(こういうのは、よく分からないもんだよね。でも決めつけはダメ!そこでクリック!)