CHUFF!! チャフで行こうよ。

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LGBTと表現の自由を考えてみる。。

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 今回は、ちょっと真面目に考えてみます。

洒落で扱えるテーマじゃないですね。

こう言う内容は、考えることを

生理的に拒否してしまうこともあると

思うんですね。

もしくは、感情的に結果を導いてしまうわけです。

 

私も、こういうテーマを考えることが

好きなわけではありませんねえ。

ただ、見てしまったわけです。

FBで起きた、あるコミュニティについて

様々な反応を。

 

 

トップ画は、先日までFBにあったコミュニティー

訳するとこうです。

 

小児性愛者も人間です」

 

このコミュニティーをFBがいったん承認して

その後ものすごい批判を浴びて閉鎖されたようです。

今はこうなっています。

 

 

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 当然と言えば当然でしょう。

私もこれに異論はないわけです。

小児性愛に関して、私の個人的な感覚は

ごく一般的なものだと思います。

つまり、生理的嫌悪感を感じるわけです。

私の目の前で、そのようなことを目撃した場合

そこに実力で介入するだろうと思います。

 

個人的に見聞した範囲でも、

小児性愛はかなりの割合で存在しますし、

潜在的なものも含めれば、かなりの数だと思います。

つまり、私が否定的に考えようとも

ある一定数は存在すると考えるのが妥当なわけです。

存在するからと言って、彼らの行為を

正当化はできないわけですが、

その存在をどう見るのか、と言う問いに関して

思考する必要もまた感じるのです。

 

なぜなら、私の人生と言う

ごく狭い範疇でさえ、それを現にしっているほど

頻出度が高いことだからです。

 

極論から言うと、ペドフィリアは「性癖」なのか、

それとも「異常」なのか?

ということに尽きると思います。

では、仮に性癖ならば、

それはどこまで許容されるべきなのか?

許容する基準は、誰が決めるのでしょう?

それは社会が決めるのか?

それとも宗教が決めるのか?

それとも多数によって決められるのか?

 

仮に法によって決められるとすれば、

その法は、誰によって定められるのでしょう?

国民でしょうか?

それとも為政者でしょうか?

そして、その根拠はどこに置かれるのでしょう?

 

我々が暮らす日本では、

基本的人権憲法によって保障されているわけです。

基本的人権とは、生存権を含みます。

つまり、生殺与奪の権利を何人も有しないわけです。

しかし、わが国には死刑制度があります。

これは論理的には矛盾しているわけですが、

「公共の利益」もしくは「公共の福祉」の優先により

死刑をなんとなく容認しているわけです。

 

いいとか悪いとか、

被害者の身になってみろ、とか。

そういうことを論じる気持ちはわかります。

しかし、矛盾は矛盾なわけです。

矛盾を内包するのは、人間の定めですが

法が矛盾を抱えることには疑問を感じます。

 

この疑問は表現の自由にもつながります。

ここで、制限をどうかけるのか?

もしくはかけないのか?

基本的な人権に含むものを、制限をかけるのか?

 

ここで、何も考えない人々は

「公共の福祉」とか

公序良俗」とか言うわけです。

私が思うに、あの論理は極めて不自然です。

制限するなら、制限をかけると言えば

良いのであって、基本的人権は制限付きである、

ということを明文化すればよいのです。

そうすると矛盾がないわけです。

しかし、フレキシビリティを失うので

怖いわけです。

フレキシビリティとは、様々なことに付随します。

社会制度、選挙、政党間調整、

国民感情、為政者、宗教、様々です。

 

つまり、法を根拠に、何かを断言できることは

まずないのであると言えるでしょう。

あるとすれば、それは円滑な社会のためであります。

これは、時が変われば変わってしまうことを意味します。

そして、その疑問は小児性愛者にもむかうのです。

 

私は、心理学的にペドフィリア

脳の興奮の過剰体験による、

反復刺激の衝動、つまり依存症だと思うんですね。

こうなると、やはり「異常」と

考えるのが妥当だと思います。

 

依存症が治療できるかどうかは、

論議を呼ぶところですが、治療の成功率は

限りなく低いわけです。

 

そこで同性愛など、比較的現代社会が

許容していると一見思われるものに注目してみます。

いわゆるLGBTを論じるのは

性癖を論じているのか?という疑問が

常にあるわけです。

違法かどうかについて論及することの

無意味さについては、先程述べました。

 

では、「性癖」であると仮定するなら

その性癖を、なぜ我々は論じたがるのか?

もしくは、それを論じる意味はなになのか?

そういうこと思うわけです。

 

問題は「性癖」がどこまでを指すのか?

となります。

 

なんだか、書いていて話が混乱してきてしまったので

私の個人的見解を述べて、一旦〆ます。

 

性癖を語らなくても良い世界のほうが

人間にとっていいんじゃないでしょうかね。

 

まあ、役に立たないことを書いてしまった

という自覚はあるんですが、

できればこう考えてください。

 

人類は昔よりは遥かにマシになった。

そのマシさを、今一度考えてみませんか?

 

(うーん、実にまとまりのないものになってしまった。。だからクリックはなしでいいです)