わたしは、ときどき、特攻隊について考える。
とくに、夏場になると、よく考える。
この写真は、アメリカの戦艦から対空砲火を受けながら、
超低空飛行で特攻する飛行機を、アメリカのライフのカメラマンが捉えたものだ。
胴体下部に、爆弾を抱えているのも見える。
キャプションによると、この機は直前で被弾。
爆発した機体の破片により、カメラマンは負傷、周囲の兵5名死亡、とある。
それにしても、見事な飛行技術である。
このことから、パイロットは新兵ではない、と思われる。
ましてや、恐怖でパニックになっているとは考えられない。
昭和20年であれば、パイロットになれたのは、一種のエリートたちだ。
その彼らは、特攻することを、どう捉えていたのか、一時期文献をあさったのだ。
その中に、毎日新聞が掲載した、この写真がある。
八重桜を振る女学生と、特攻隊。
これは、合成写真だ。軍が作ったのではなく、新聞社が作ったのだ。
新聞とは、このレベルなのだ。いつの世も。
このような、安易なイメージではなく、
特攻隊員が、何を思っていたのか、それを知りたくて、九州の知覧まで赴いた。
その中で資料を大量に読むうち、いくつか胸に刺さるものがあった。
一つは、特攻隊員の母の手紙である。
母親は字を書けなかったらしく、代筆者もカタカナしか書けなかったようである。
ワシハジヲカケンカラ、アニニタノム。
ナムアミダブツトイッテクダサイ。
ワシハムズカシイコトハワカランユエ
ナニモイッテヤレヌ、スマン。
タダハハノコトバトシテ、ドウカオボエトッテホシイ
ナムアミダブツ、ワスレタラアカン
ドウカドウカ、ナムアミダブツ
その手紙には、多分息子の血染めであろう文字で
「承知」
また、別の資料にはこうある。それは遺書ではなく、日記である。
特攻隊員がすることもないので、散歩していたらしい。
周辺の人は、知覧の若い兵隊たちが特攻隊員であることは、もちろん知っている。
私が昨日歩いていた時、おばあさんが畑仕事をしていました。
腰が曲がった小さなおばあさんは、汗を流して鍬をふるっていました。
遠くからわたしがそれを眺めていると、おばあさんは私に気づきました。
おばあさんは、私に向かって手を合わせ、曲がった腰でさらに頭を下げてくれるのです。
私は、おばあさんそんなこと止めて下さい、と叫んで、走りよりました。
でもおばあさんは、じっと手を合わせて頭を下げ続けてくれるのです。
このおばあさんのためになら、死んでもいいかなと、その時思ったのです。
それまでは知りませんでした。
彼らは、出撃して、記録は戦死。
二十歳そこそこ。
わたしには、彼らの想いなど分かりませんでした。
到底無理なのです。
ただ、ただ、涙が止まらなく。
資料を汚すのも、申し訳なく、身をかがめて泣きました。
悲しいというのでもなく、辛いというのでもない。
よもや、かわいそうなどというようなものもなく。
私は、ただただ泣いたのです。
確かに、彼らは、死んだのです。