片岡義男ほど誤解された作家はいないのである。
彼の名を聞けば
「あー、昔よく読んだわー」
とか
「気の利いたセリフで憧れたわー」
とか。
そういうアンポンタンが無数に出てくるであろう。
ワタイは、十代からもちろん読んでおったし
流行作家になる前の文章もかなり読んでいたザンスな。
一番印象深いのは、あるチョッパーが
昼飯としてグリーンピースの缶詰を長々と食べる文章であるな。
ところで、「アンポンタン」はまだ使えるのであろうか?
てか、通じるのであろうか?
まあそこはいいだろう。
さて、そんな大量執筆で枯れかけた時期の片岡義男が
素晴らしい名文を書いておるのであるな。
これはワタイも持っていたように思う。
ちょっとどこで読んだかはっきりしないのであるけれども。
しかし、これを書いた頃には、彼の存在は時代遅れになっていた。
少なくともそう思われていたはずである。
流行作家となってしまった後には、
人々は軽い侮蔑を向けるものであろうな。
そう、そんな時期に、この素晴らしい文章を書いておるのだな。
全文を引用する。
引用元はこちらであるから、問題なのかもしれないが
まあ、言われたら引っ込めよう。
こちらから全文引用してみようと思う。
僕がまだ子供の頃、金属製の缶に入ったサヴァイヴァル・キットをひとつ、アメリカの親類の人から、おみやげにもらったことがある。素人の遊び用ではなく、森林警備隊のようなプロの人たちが使う本物なのだと、くれたその人は言っていた。かつてパイプ煙草の容器によくあったような、両側が丸くなった、厚みのそれほどない縦長の容器に、すべてが入っていた。
それは、しばらくのあいだ、僕にとって大事な玩具となってくれた。防水マッチがひと箱、入っていた。小さなサイコロを銀紙で包んだような固形スープがいくつかあった。ホイッスルもあった。細いけれど丈夫な紐もあったと思う。体に巻きつけ、体温の発散を防ぐためのシートもあった。このシートは、美しい銀色だった。ティー・バッグがいくつか、入っていた。そして、角砂糖が添えてあった。山でのサヴァイヴァルについて、ごく基本的なことを説明した、小さな薄い本もあった。その本があることにより、キットぜんたいは、たいへんに引き締まった本格的なものに見えた。
キットのなかみは、いつのまにかひとつずつ、なくなってしまった。容器はかなりあとまで僕の机の引き出しに入っていたが、それもやがてどこかへ消えた。しかし、ひとつだけ、いつまでも僕の頭のなかから消えないものがあった。
小さな薄い本に書いてあったことを、僕は何度も読んだ。そのなかで、もっとも強く僕の印象に残ったことを、いまでも僕は覚えている。それは、雪山のなかで迷子になったとき、一杯の熱い紅茶がいかに有効であるかについて書いた部分だった。
一面の銀世界のなかで迷子になると、方向の感覚がなくなってしまう。頭のなかはパニックを起こし、やみくもに歩きまわってさらにひどい状態を招いたりしかねない。そんなとき、冷静さを取り戻すと同時に体を温めるため、湯を沸かして一杯の熱い紅茶を作りゆっくり飲むと効果的である、とその本には書いてあった。
一杯の熱い紅茶を、ゆっくり心静かに飲むならば、それは自分の心を冷静な状態に戻してくれる。精神は再統一され、判断力は正常さを回復する。体は温まるし、添えてある砂糖を入れるなら、エネルギーの補給にもなる。そんなことが、要領のいい的確な文章で、その小さな本には書いてあった。
この文章に、子供の僕は、簡単に説得されてしまった。野外で遊ぶのが大好きだった僕は、海にも山にも、親しくなじんでいた。迷子になって困るような雪山からは遠かったけれど、雪におおわれた山のなかで迷子になったとき、しばし空白の時間を作り、そのなかで一杯の紅茶をいれて飲む行為の効果は、想像のなかでリアルに体験することが出来た。
サヴァイヴァル・キットのなかに入っていた小さな本で読んで、この紅茶のことを、僕はそれ以来ずっと、いつまでも忘れずにいた。いまでも忘れていないし、これからも忘れることはないだろう。
野外でひとり、心静かに一杯の熱い紅茶とむきあうことの精神的な効用に関しては、すでに僕は何度となく確認している。山のほうにむかったときの僕にとっての野外は、せいぜいが人里を離れた山裾でしかないのだが、ひとりの紅茶は充分に楽しめる。
都会的なもの、たとえば遠くに見える高速道路、高圧送電線、コンクリートの橋、最近の民家、おなじく最近の商店などが視界に入ってくることのない、自分ひとりだけになれる場所で、湯を沸かす。農家の井戸でもらっておいた水筒の水を、例のイスビットの簡単な器具とその固形燃料で、シエラ・カップのなかに沸騰させる。気がむけば、イスビットではなく、落葉や枯枝を集めて小さな焚火をしてもいい。
湯が沸くのをじっと待っていると、心のなかから雑念がひとつずつ消えていくのを、はっきりと実感することが出来る。気持ちは落ち着き、やがて忘我の境に近くなってくる。精神は集中と統一を受け、なんとも言えずいい気分だ。
湯が沸いたなら、ティー・バッグでいいからそのなかにひたす。紅茶のあの色が、カップのなかの湯に、広がっていく。その様子を、じっくり見るといい。普段はなにげなく見過ごしていることを、このような機会のなかでよく観察すると、発見はたくさんある。
砂糖は、入れても入れなくても、どちらでもいい。ただし、角砂糖をひとつ入れるだけで、おなじ紅茶でもその性格や世界は一変するから、両方ともお勧め出来る。
香り高い紅茶が熱く満ちたシエラ・カップを手に持ち、そのカップにむけて、ややかがみこんだような姿勢で、紅茶とむきあう。カップのなかにある紅茶に、気持ちは集中していく。そしてその集中は、不思議な効果をもたらす。
ひとりで静かにむきあう一杯の熱い紅茶には、治療効果のようなものがある。心のなかから夾雑物をとりのぞき、フィルターにかけて浄化したような状態に戻してくれる。そのような状態になった心を、その次の段階では、紅茶はじつにすっきりと、ひとつに統一してくれる。精神は、きわめておだやかなありかたのまま、鋭く一点に集中されていく。これはたいへんな快感だ。
僕はそのような紅茶を何度も体験している。人里まで歩いて一時間、というような場所へわざわざ出かけていき、そこでひとり紅茶をいれて飲むのだ。僕は、こういう紅茶の中毒だと言ってもいい。飲み終わって遠くを見ると、その遠くには雪が降りはじめていたりしたりすると、最高だ。歩いていると、その雪が追いついてくる。なにごとか考えながら、その軽い雪とともに、ひたすら歩く。
紅茶のかわりにコーヒーでも、おなじ効果があるのではないかと考えたことがあるが、すくなくとも僕の体験から言うなら、コーヒーにはこのような効果はない。コーヒーは、カップの外へ外へと気持ちを広げ、拡散させるようだ。紅茶はその逆に、カップのなかへ、そして紅茶の底へと、気持ちを引っぱりこんでくれる。そして到達地点には、ある種の真実のようなものがある。
コーヒーには、敗者復活の雰囲気が色濃く漂う。自分の内部に、打ちのめされた部分があることを、コーヒーは自覚させてくれる。その自覚をもとに、最終的には敗れるかもしれないけれど、よし、またいくぞと、再び立ち上がるための背後からのひと押しが、一杯のコーヒーだ。紅茶とは、その性格を異にしている。
以上のようなことを、長い時間のなかで僕に丁寧に見せてくれる最初のきっかけになったのは、サヴァイヴァル・キットに入っていた、一冊の、というよりもひとつの、小さな本だった。
片岡義男(『永遠の緑色ー自然人のための本箱』1990年所収)
素晴らしい。
ただただ素晴らしい。
確かに屋外、特に人里離れた土地では
コーヒーより紅茶が適任であるのは、経験者ならわかることだと思う。
しかし、その謎をここまで明快に書かれた文章を、ワタイは片岡義男以外に知らない。
そこには海外のものも含めてもいる。
ワタイなりに思ったのは、コーヒーと言う飲み物は
どこかで他者を求めているのではないだろうか?ということ。
そこには会話を含めた、自分以外の人間との何らかの疎通を求めているような気がする。たとえそれが、戦いであってもであるな。
しかし、紅茶の世界というのは、言葉を正当な意味で使うと「自閉的」な傾向を示すように思われてならない。
他者が消えてゆく、と考えてもよいのかもしれない。
さらに言えば、己も消えてゆく世界。
つまりは、死の匂いがそこにはある。
永遠の死。
動かないエネルギー。
片岡義男はそこまでは書いてはないない。
ただ彼の作品は、人間は常に一人なのだという、完成された真実の香りに満ちている。
だからこそ、彼の描く世界は理解されない。
もしくはされづらい。
オートバイの排気音は、仲間を求める咆哮ではない。
孤独自体を破壊する、忘我の声なのである。
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