
デス語という死語があります。
今なんて言うんでしょうか、ああいうの。
言葉は生き物、というのはよく使われる表現です。
よって消えてしまう言葉もあれば、生まれてくる言葉もあるわけです。
ということは、流行り廃りもあるのは当然なわけです。
しかし、単なる流行り廃りであるならばわかりやすいのですが、実際はそれを使う人間の頭の中が変わってしまったのだと思います。
かつて、ある種のロマンさえ感じた表現が嫌悪を感じさせるってのはありませんか?
あれはなんなのでしょうね。
日本語の特徴として「定義」の不在というのがあります。
感覚体には理解できている(と感じる)のですが、意味を問われるとうまく説明できない。
そういうのあるじゃないですか、特に日本語では。
例えばですね、代表例は「愛」やないでしょうか。
あれね、英語ネイティブにLOVEの意味訊いてごらんなさい。
数時間説明してくれます。
鬱陶しいほど厳密なんすわ。
アメリカ人はしょっちゅう日常で言ってると思いますやん?
でもあれは、心を込めて言う場合やないわけです。
意味が重すぎて、逆に何も考えずに言うてるわけです。
マジな顔してDo you love me ?とか訊いたら、ドン引きされまっせ。
いやまあ、これは本旨とは関係ないですな。
我が国は和歌ですべてを行っていた歴史があると本郷和人先生もおっしゃられています。
しかも、和歌の8割は色恋話しなわけです。
っていうことは、エロに依って政治も決まる世界です。
そしてですねえ、その表現も様々なのです。
今から考えると恐ろしいとさえ思えるような表現が日常にありました。
それを思い出してみようと思うんです。
その昔、松坂慶子が若き日のことです。
今は恰幅の良い御婦人です。

彼女がバックショットでセミヌードになったときのことです。
検索したらすぐ出てきました。これです。

これ、週刊誌に袋とじ出でたんすね。
でもポイントは彼女の裸体ではないんです、今日は。
このときインタビューでこう答えていたんすね。
「私も大人の女です。男性と同じ歯ブラシを使ったこともあります」
これですこれ。
これ今の人は意味不明というか、気持ち悪い人いるんやないですか?
松坂慶子の全盛期、コンビニはありません。
ですので、急にお泊まりになったとすれば殿方に歯ブラシの予備なんかないわけです。
なので、同じ歯ブラシを使うわけです。
どうでしょう、今どきの感覚であれば気持ち悪いんやないでしょうか。
しかしですねえ、気持ち悪いもなにも、もっと粘膜の触れ合うことやってるわけです。
今更歯ブラシの共有くらい何いってんだかなわけです。
うーむ。。
では、次いきましょう。
この言葉もなんか映画かなんぞから流行ったのかもしれませんが、今は言わないでしょうな。
「夜明けのコーヒーを一緒に飲んだわ」
今、キーボードを叩いている私もいたたまれない気分ではあります。
なんというか、恥ずかしさと居心地の悪さ。
使ったことも、使われたこともあるんでしょうなあ、これは。
夜明けのコーヒーを一緒に飲む状況を考えてみましょう。
寝るのも忘れてやりまくって疲労困憊なのでしょうな。
でも、仕事なりなんなりにいかねばならないからコーヒーなわけです。
でなけりゃ寝てますって。
夜明けなんですもん。
これに比べればもっと昔の都々逸は余裕があります。
三千世界の鴉をころし、主と朝寝をしてみたい。
嘘かホントか高杉晋作が作ったとか。
朝を告げる鳥を抹殺してでも一緒に朝寝をしたいというわけですな。
江戸時代末期、やるかどうかはついでのものだったのかもしれません。
しかし、高度成長期となると当然24時間体制なんですね。
寝てる暇などありゃしない。
やれるだけやりまっせ!
だって、それが愛だもの!なわけです。
うーむ。。。
じゃあ、次行きましょうか。。
なんかね、不思議な嫌悪感というか、そういうの出てきております。
でもそこはですね、使命感とオマージュで乗り切っていきましょう。
「昨日と同じネクタイ」
だめなんスカ?
ええ、駄目だったんです。
もうこれは、どっかに泊まったという意味なんですね。
なんていうオシャレ敏感時代。
同じネクタイしているだけで、もうそこは訳あり。
みんなネクタイしていた時代でしょうな。
私も若き日にはネクタイなんぞ飼い犬の象徴として嫌悪しておりました。
ところが今は必要もないのに好きで締めております。
街なぞ歩きますと、ネクタイしている人のほうが少数派でしょうなあ。
昨日と同じネクタイなんぞ、今はそもそも存在しないわけです。
うーむ。。。
なんか、どんどん陰鬱な気分になってきましたが続けます。
「あの娘の味噌汁のんだよ」
うわー、なにこれ。
だから何なんだよ!って感じです。
この文章の場合、女性が作る朝食を一緒に食べたという意味でしょうなあ。
ですので、そこに泊まったっていうことでしょうなあ。
味噌汁ってのがなんというか淫靡ですな。
なんといいましょうか、急に泊まった感が出ています。
しかもなんとなくその女性は家庭的というかウブというか、そういう感もあります。
玄関入ったら、そこに台所みたいなアパート。
ありあわせで作った朝食。
奥の畳の部屋には、布団。窓には花がらのカーテン。
小さな三面鏡。
これを言う男性の悪意が見えてきますなあ。
いたたまれない気分になりますなあ。
味噌汁って、本当に味噌汁のことを言っていたのか深読みしていまします。
?味噌汁が味噌汁以外のものだったらなに?
そこはご想像にお任せしますよ。
こういうのを日本語は感覚的に使うわけです。
なにせ、和歌ですから。
全てはメタファーかもしれません。
じゃあ、そろそろ真打ちいきましょうか。
「もう他人じゃないんだから」
うわー。
うわー。
そんな事言われても。。。
まさか血縁なわけないんだし。。
血縁だったら、もっと大変な事態だし。。。
この表現は、やっちまったら他人じゃない関係ができあがるという恐ろしい話ではあります。
でもよく聞きましたね、これ。
そりゃ粘膜をすり合わせたかもですが、それが他人じゃない関係を示していたわけです。
確かに粘膜をすり合わせるというのは、なかなかのもんです。
人体の「私」と「他」の境界線が皮膚ですから、その皮膚の中でも一番薄く他(外)と接する可能性があるのが「粘膜」なわけです。
ですので、通常はそういう部分は露出はしないことになっておるわけですね。
それをあえてすり合わせたのですから、細胞レベルで考えればいろいろミックスされておるわけではあります。
そのミックスが生命として宿れば、それが妊娠なわけですね。
ですから、この表現もわからなくもないかあ。
ふーむ。。。
さて。。。
ここで終わればオッサンの与太話ですので、多少は深めたいとは思います。
深めても与太話なのは当然なのではありますが。
ここで取り上げましたのは昭和時代の表現です。
そこで考えるのは、昭和という時代は自他境界に対してある種の合一を美しいと思う思想があった気がします。
それは団結と申し上げても良いかもしれません。
団結すると、非団結者がいるわけですから、そいつらはよそ者になるわけです。
現在のグローバリズムとは真逆の世界ですね。
当然よそ者は敵である可能性が高いわけでありますから、闘争が好まれる。
ゆえに、同胞を増やすことに依って安心感を高める傾向を示すわけです。
そりゃあベビーブームにもなるわなあ。
合一、団結、などと申しましても現実的にはそれは夢想であります。
逆に言えば夢想故に甘い夢にすることも可能なのでありますね。
そして、その夢想は大体が悲劇的結末に至ると知ったうえでも欲するわけで。
逆に、今のグローバリズムを始めとした資本主義の最終形態は、富の再分配による再搾取の傾向が如実であるわけです。
そしてそこに見え隠れしているのは、階級なき階級社会なわけでありますね。
それを良いとも悪いとも思うことは私にはないのでありますが、惚れた同士の間柄であれば歯ブラシくらい仲良く使えばええやんな世界のほうが好きではありますな。
しかし、水洗トイレを手放せないのと同じように、スマホを手放せないのと同じように、我々は後戻りできない世界に生きておるのだと思います。
和歌の交換で好いた惚れたやっていたわけですから、今のSNSでの好いた惚れたも同じようなもの。
そう考えれば、さして変わってない気もいたします。
でも多分なんですけど、やっぱ歯ブラシは一緒には難しいですよねえ。
ふーむ。。。
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