その人は、「運子」さんと書いて、カズコさんと読むらしい。
小学校の同級生のお母さんだった。
子供心に、お母さんの半生が壮絶だったろうな、
とため息を一つついた記憶がある。
そう、今日は「うんこ」について考えてみよう。
こんな鬱陶しい天気の日は、
「うんこ」について思索にふけるのがよい。
そんな私を批判する事は許さない。
なぜなら、それは「うんこ」を軽く見すぎているからであり、
人類、生命、ガイアに対する不敬だからである。
友人に「ゴム兄」という岐阜の人がいる。
「ウンコ」への探求では他の追随を許さない。
ネットの海のどこかに、彼の華麗な文章があると思うので、探してみてほしい。
彼とは異なるスタンスで、私は「うんこ」で考えてみたい。
彼は言うなれば「ウンコ」であり、私は「うんこ」である。
彼の「ウンコ」は形而上的であり、ある深淵な真理を有する。
一方私が述べる「うんこ」は、もう少し「現物」としての物体としての存在である。
私は、やはり、リアリストなのだろう。
まず、人間が「うんこ」を出さず、すべてエネルギーに還元できたとしたら、
これは凄い事がおきる。
まず、トイレが要らないので、住宅事情が劇的に改善される。
いや、オシッコの問題はあるが、
「うんこ」に比べたら「屁」みたいなものである。
自分のオシッコを飲む「オシッコ健康法」はあるが
「食糞」は常にマニアか異常かどちらかであることから、
オシッコをこの際無視して考えることは妥当と一応しておく。
食料問題もかなり解決であるし、
介護の苦労も比較にならないであろう。
と、考えると、毒素排出としての排便はどうなるか、
という生物学的な問題が発生する。
しかし、単純毒素としてのそのレベルの量なら、
肛門から出なくてもよいので、手のひらあたりから出せる事にしよう。
となると手袋は「下着」に近い「秘部」を隠すものになる。
ガーターの手袋だとか、レースの手袋だとか、
手の近辺がやたらといろんな意味が出てくる。
手袋が、ランジェリーになるのだ!
「今夜で、なんとかあの娘と握手するぜ!」とか、
意味深すぎることになる。
日常の中にエロが満開になるので、少子化にも貢献できるだろう。
握手という行為に重みが出て、世界は平和になるかもしれない。
なる程、今日は脳の調子が良いな。スムーズにまわっておる。
ウム。
私が「うんこ」について語ると、必ず想起される話がある。
それは愚母のことである。
確か私が高校生だったと思うが、
母が突然叫んで姉と私を洗面所に呼びつけた。
あまりの叫び声だったので、いそいで駆けつけると、母は興奮気味に
「こんなりっぱなうんこを見た事があるか!?ないだろう!」
と言ったのである。
仮定法過去断定型、倒置法表現だ!
つまり、自分が出したばかりの「うんこ」をわざわざ披露したのである。
確かにそれはりっぱなものであった。
長さ、太さ、すべてにおいて完璧、
言い換えればある種の「美」はあった。
しかし、しかし、である。母は芸術家ではない。
だが、さらに、しかし、しかし、である。
その時、母の目は芸術家のそれであった。
「美」にたいする歓喜と興奮が、私たち姉弟の目の前にあった。
そんな力は「うんこ」にしかないのである。
姉はしばらく感動した(と、私には見えた)後、
新しき芸術に圧倒された人間が取る、
典型的パターンを示した。
それはエルヴィスを初めて観た保守的なアメリカ白人のそれである。
つまり、猛烈に母に対して怒り始めたのだ。
まあ、わからなくもない。
一方私は、廊下にひっくり返って笑い続けた。
語る母、怒る姉、笑う私、そして漂い始める「うんこ」の芳香。
惜しい、あまりに惜しい。
貴兄らの想像力に頼るしかなく、
アーカイブとなっていないことが、あまりにも惜しい。
「うんこ」は快楽であり、禁忌であり、必要であり、隠したいものである。
深い、あまりにも深い。
私は、今それに気づいた。
「うんこ」は永遠の一つの形だ。
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