朝剃った髭が、どうにも気に入らず、
男は床屋で髭を剃らせた。
床屋の使う剃刀は、古臭い一枚刃の剃刀だった。
男は、床屋が磨くそれを横になりながら見つめていた。
主人は一枚刃の剃刀を、ベルトのような革で磨いた。
主は革の上で刃を前後させる。
シュッシュと、衣擦れのような音を男は聞いた。
古い椅子はよく手入れされていて、
革はつやを持ち、メッキは十分な輝きがある。
店内に装飾はなく、奥に関羽が祭ってある。
その小さな祭壇の下で、銀色の毛の猫が眠っている。
「上海」
男は小さくつぶやいた。
主は何も言わず、黙って泡を男の頬にのばし、
研ぎたての剃刀で、男の髭を剃り始めた。
男は目をつぶり、主人の剃刀が髭を剃ってゆく。
「狗不理」
そう言ったあと、男は寝息を立て始めた。
主は剃刀を動かすのを止め、男の顔を覗き込んだ。
深いため息をつきながら、主は二度首を横に振った。
一旦泡をきちんと拭き、男の喉元からタオルを外した。
主人は小さな通りに面した窓に近づき、外を見た。
結露が少し付いた窓からは、向かいの八百屋を見る。
八百屋の隣には閉めた時計屋があり、
シャッターが錆びている。人通りも多くない。
汽笛が三回聞こえた。
「万事如意」
主人は広東語で小さく呟いた。
窓からは見えない海に向かって敬礼し、
ついで鏡に写った自分を見つめた。
白衣の襟を直し、ネクタイノットを確認した。
髭は綺麗に剃り上げている。
眼鏡に曇りはなく、髪に乱れはない。
男は動かず、静かに息をしている。
主は、再び剃刀を研いだ。
主が剃刀を構えた時、男は目を覚ました。
「済んだか?」
男は自分で頬を撫でた。満足そうに頷き、主を見た。
「剃っても、どうせまた生えてくる」
「ですから、私どもの商売があるのでしょう」
「永遠に儲かる商売ってわけかい?」
「いえいえ、永遠などとは思いません」
「心配するな、その前に俺が消えてなくなる」
男は金を払い、釣りを受け取った。
ドアの前で深く息をし表に出て、
時計屋と八百屋の路地を抜けていった。
主は煙草に火をつけて、深く吸い込み、その路地を見た。
振り返って猫を見て、首を二回横に振った。
煙草を口に咥えたまま、シュッシュッと音を鳴らしてまた剃刀を研ぎ、
その刃先を覗き込んだ。
ぼんやりと浮かぶ自分の顔をしばらく見つめ、首を上げて路地を見た。
「一路平安」
主は一言いい、掃除を始めた。
猫はあくびをして、ゆっくりと体を伸ばした。
主は、洗面台の水滴を完全に拭き取った。
「そう、消えてなくなるさ」
猫は主の足元にやってきて、自分の首を主の足首にすりつけた。
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