この話は、パリに留学していた日本人女性から聞いた話し。
彼女は、確か中世の美術史かなんかを学びに行ってました。
知り合いの恋人で、数回お話ししただけなのですが、
とても印象に残るエピソードがありました。
パリ市内で、彼女はわりと便利なところに住んでいたそうです。
いわゆる旧市街は、家賃がとても高く、
彼女は路地裏の、エレベーターもない6階に住んでいたそうです。
小さな屋根裏部屋のようなところで、狭い部屋だったそうです。
洗濯ものを干す場所もなく、コインランドリーで済ませていました。
最初のうちは、パリ特有の冷たい視線に緊張していたようですが、
顔見知りができ始めたとき、彼女のフランス語も急激に上達したらしいのです。
そんな時、一人の老女と出会います。
70歳は優に超えているようですが、杖をつきながら、いつもハイヒールを履いていたそうです。
身なりも上品で、冬には優雅な毛皮のコートをまとっていたそうです。
老女と彼女は、徐々に親しくなりました。
「この女性は、かなりお金持ちなのに、なぜコインランドリーなんかにいるのだろう?」
と不思議に持った、若き留学生は、
「訊いてはいけない理由がきっとあるのだろう」と、それを尋ねませんでした。
ある日、老女は彼女を自宅に誘います。
彼女は二人分の乾いた洗濯物を持ちながら、老女の自宅まで歩きますした。
杖をつきながら歩く、ハイヒールの老女の歩幅に合わせてゆっくり歩くうちに、彼女はなんとなく少し心配になってきたそうです。
とりとめもない会話をしながら、ある角を曲がると
「ここよ」
と彼女が杖を指した建物は、本当のアパルトマンでした。
本来、パリで「アパルトマン」と呼ばれるものは、単なる高級賃貸物件ではありません。
様々な規制があり、歴史的価値を含む、認定された建築物なわけです。
オーナーがそれを売買する事はほぼなく、賃貸も空きが出る事は稀なのです。
ドアマンが、きちんとした身なりで「お帰りなさい、マダム」と挨拶するような、そんな建物です。
古いスケルトン形式のエレベーターで、最上階の8階に上がります。
部屋のドア開けると、天井高は5メートルくらいはあり、全体にアールデコの装飾が施されていました。
完璧なフランス語を話すアジア系のメイドが一人。
年は老女より少し若いくらい。
老女はメイドを「ニャン」と呼び、その二人住まいのようです。
学生の彼女からすれば、この老女の裕福さは、想像を超えていました。
しかも、老女はこの建物自体のオーナーであるらしい事が分かります。
「うちのメイドも、特にする事ももうないのよ。家族みたいなものだし、部屋も余っているから、通いではなくて住み込みにさせたの。お互いもう年だしね」
学生はますます混乱します。
老女はなぜ、コインランドリーに通っているのでしょう。
「ニャン、この日本のお嬢さんに、紅茶をお出しして」
ライラックの花を数十本はいけた花瓶を左右に配した、分厚い生地のソファに座りながら、マダムはタバコを吸い始めました。
「あなたがタバコを嫌いかは、私は気にしないから、あなたもわたしのタバコのことは気にしないでね」
もう、なにがなんだか分からない世界に入ってしまったようでした。
(つづく)
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