今こそ「哲学」ですよ
「ボクの髪が肩まで伸びて」とここに書けば、これは問題なのでしょうか?
とたんに、JASRACに怒られて、しこたまお説教されるんでしょうか?
でも、言う事あるかもしれないでしょ。普通の人が普通に言う事も。
現に、みうらじゅんさんなんか、ずっと髪が肩まであるのです。
みうらじゅんさんの髪が肩まである事は、著作権にかかってくるのでしょうか。
謎でしょう?そういうの。
じゃあ、理屈で説明してやんよ!なんて人もいるかもしれません。
いいでしょう、お聞きします。でも法律関係は「理屈」には入れませんよ。
理屈を「法」で語るのは愚かな事です。その「法」の有効性を理屈でいじり倒す必要がありますからね。
その「理屈」ってのも、なんだか怪しいものです。
「道理」とどう違うんですか?
もう、すでに嫌な人でしょ、こういう事言うのは。
でも、そういうことを考える事が「哲学」なんですよ。
ですから、「私の人生哲学は」とか「トップ100人の経営哲学」とか、あれは言葉として間違っているんです。
哲学は、人生訓とか、正しい生き方とか、そう言うの全く関係ありません。
ただひたすらに、理屈で説明して、理屈が通用しない事象の前では、あっさりと方向転換して、したり顔をするものなんです。
では、そもそも「哲学」ってなんなのか、考えてみましょう。
そのルーツは、古代ギリシャなのは有名ですね。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、で一応確立されたことになってます。
まずここです。
彼らは哲学の大家というより、その後二千年以上続く格闘技のようなものの、ルールを作ったと言っていいでしょうね。
まあ、ルール作った人たちですから、偉大っちゃあ偉大です。
彼らのルールによって成立した「哲学」は、その理屈のこねかたは、現代科学の基礎になっているのですから。
彼らがいなければ、ジョブスもいなかったと言っていいでしょう。
でも、注意しなければいけないのは、彼らは「世界を説明しつくす」ことのルールで「哲学」を始めたので、いろいろ不都合も含んでいたのです。
例えば「鍼灸」のツボの流れである「経絡」なんかは、身体を開いてもそんな神経みたいなものは見えないので、困ってしまうわけです。
よく効いたとしても、「まあええ感じやな」では済ませてもらえないのです。
鍼灸にも、もちろん理論書はあるのですが、まあこれは分かるような分からないようなもので、とても「理屈」とは呼べません。
そうすると、哲学はどっちか選ばなくてはなりません。
① 理屈じゃないんだから否定する。つまり鍼灸は間違っているのだ!
② 哲学が修正することで、この事実を哲学に組み込む。
もうね、嫌になるでしょ。こういうことやった結果いったいなんかいいことあったんでしょうか?
これがまたけっこうあるってのが、哲学をややこしくさせている理由でもあります。
ソクラテスがいなかったら、スマホもPCもなかったんですよ、実は。
「ボクの紙が肩までのびたら」
「僕の神が潟までのびたら」
「ぼくのかみがかたまでのびたら」
ね、はっきりさせたいでしょ?これは誰かの権利を侵しているのかどうか?
それを「理屈」で本当に説明できるのか?
知ってもいいことなんかないのでしょうけど、こういうへ理屈は、どこかで少し役に立ったりするかもしれませんよ。
ごくタマにですけど。
よってこれは、しつこくやります。
興味のない方が、ほぼ全てだとわかってはおりますが、しつこくやりますよ。
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