前回、徳川家康の登場まで来ましたね。
そこで、豊臣家康、前田利家、徳川家康の名をあえてあげました。
これには理由があるのです。。
彼らは、歴史の最前線に出てきますが、実は伝統的な武士ではありません。
不思議に思われる方もいるとは思います。
特に徳川家康に関しては。
家康の時代に、家康の実家である松平家は、そこそこの大勢力だったはずです。
そうでないと、彼が幼い日に人質として今川家にとられることもないわけです。
しかし、三代くらい遡ると、イマイチ曖昧になるんですね。
一応源氏を名乗ってましたけど、実は勝手に名乗っていたんですね。
つまりは、田舎のギャングっていうことです。
このあたり、相当家康もコンプレックスあったようで、
武力で正式に源氏と認めさせているわけです。
江戸幕府は、その血統捏造のために、開幕が遅れたとも言われています。
秀吉、利家にいたっては、全くもって武士の血筋とはいえないわけです。
もう、どうしようもなくはっきりしているわけです。
よって、秀吉はまず羽柴家に入り、次に豊臣の姓をもらって、関白になるわけです。
ここで、氏姓制度をもう一度おさらいください。
源氏でもなく、平氏でもないとすれば、あとはお公家さんの姓ということになります。
まあ、だから関白になれたとも言えるんですけどね。。
このころには、公家さんの名前とか、けっこうお金で買えるんですよ。
お金やいろんなものと引き換えに、氏姓の下賜は、
実は平安初期には、例外的とはいえ既に始まっています。
それが露骨になってきたとも言えるでしょう。
この歴史的な激動の時代に、地方はどうだったかというと、
島津、毛利、細川、長宗我部、上杉、武田、
まあいろいろあるでしょうけど、その地元では長い間(多分400年位)、
別枠の官僚制度が育まれていたわけです。
時代は、結構いい加減なこと起きてるのに、
実は昔からのものが、ずっと地方では続いているわけですね。
彼らはもとをただせば、鎌倉の時代にその土地に王国を築いたようなもんです。
しかも、彼らの中には関ヶ原で負けたのに、
江戸時代をずっと生き抜くくらい、強い集団もいたわけです。
徳川が喧嘩したくない相手といいましょうか。
その二大勢力が、長州薩摩なわけです。
家康は、最後まで敵として捉えていたのは、実は島津です。
島津家の初代は、頼朝から直で杯もらってますしね。
大阪城も、名古屋城も、甲州街道も、全ては島津への対策なわけです。
なんか、いろいろ見えてきませんか?
明治時代に、薩長が「武士道」と言い出した奇妙な雰囲気が。。
彼らとて江戸の平和の中で、徳川のいうところの「武士道」にも感化されてゆきます。
ですので、初期の荒い気風は消えていたでしょうけれども。。
その話は、もう少しあとにして、
今は関ヶ原前後に話を戻しましょう。
「生き残ること」の概念がこの頃変化してきます。
サバイバルは、各自がその生命を永らえさせることを当然指すわけですが、
この頃より「家」の存続が、サバイバルの課題となってきます。
個人の生命の話ではなく、血脈をつなぐこと、
つまり直系の「家」概念が武士の中で起きるんですね。
あえて、直系と書いたのは、この時期誰も信用出来ないんで、血筋が重要になったんです。
でも、それまで日本で血筋を大事に思っていたのは、
実は天皇家、もしくはそれに類する家だけだったんですね。
その習慣を、下層である「武士」が、真似し始めたといえるでしょうね。
それまでも、有力な「家」はもちろん血統主義です。
しかし、ここでいうのは、戦国時代だからこそ武士になりえた人々のことです。
ここで注意してほしいのは、この場合の武士というのは、
源氏でもなければ平氏でもない、卑しい出の足軽クラスまでそういう気分になってきた、ってことなんです。
つまり、自称武士系の人々です。
足軽なんて、ホント低い身分ですよ。
ここで書いたら怒られそうなくらい低いわけです。
言葉にして言いましょうか?
ああ、それはやはりマズイ!
現代社会でも、そこはダメです!
これでお察しできない人は、そのまま幸せにバカで生きて下さい。
そんな中で、後に江戸時代に入るとあまり気にしなくなるので、
血統伝説は消えるんですね。
どっちかっていうと、各「家」そのものが、
減りゆく既得権を守る逆ベンチャーになってゆくので、
否応なく能力主義が裾野に広がってくるんです。
江戸時代に、血統が問われるのは、明らかに上層部だけです。
中層部から下は、子どもをやり取りしてゆきます。
ですので、一族というものも、ゆっくりと消えてゆきます。
つまり、なかなか信用できない仲間同士で、江戸の太平は維持されてゆくわけです。
じゃあ、どうすりゃいいのさ?
そろそろ、「武士道」の成立が、なんとなく見えてきましたね。
そのベースが出来上がったのが、実は戦国時代ということになります。
まずは上から始まり、下が上になれ可能性のあるる時代を経て、
どんどん大衆化していったわけです。
こういう広まりは、エマニュエル・トッドの家族形態理論の広がり、
と同じように、敵味方思想信条関係なく広がってゆきます。
挙句の果てには、庶民クラスまで「家」が下りてくる流れが始まってんですね。
でも、実は、本当のエグゼクティブはあまりメンバーが変わってないんですけどね。
これは世界中で実はメンバー変更って、あまり起きてないんですよ。
「武士道」とは関係ない話ですけど、メンバーの入れ替えなしってのは「ソ連」においてもそうであったことが、かなり明白にわかってきています。
すごい話でしょ?共産革命を実際にやったソビエトで、それなんですよねえ。。
その一大変換期があったんです。それは、ソビエト崩壊の時。。
戦国もあんな感じのものだったのかもしれませんね。
いやあ、なかなかすごい話になってきたでしょ?
ちなみに、どうも本当に下克上という空気があったかどうかについては、
最近の日本史では否定的みたいですね。
ときどき、下克上のスーパースターが現れます。
アレは、実のところかなりのレアなもんなんですね。
松永久秀とか、斎藤道三とかも、あのインテリぶりは正式な教育を受けたとしか思えませんしね。
正当性はないけれど、まあまあボンボンの強烈な人々、ってとこでしょうね。
案外みんな、荒れたことしていても、出はいい家だたりするんです。
ところが、メインステージでは、それとは全く逆のことが起きているわけです。
秀吉とか、前田とか、いろいろ。
石田三成が、「天下の嫌われ者」と言われたのも、
近江商人の丁稚風情が何言ってんだ!と思われたのでしょうね。
でも、そろばん勘定だけで、大名になれたわけですから、大したものです。
つまり、「下剋上」があったかどうかはともかく、日本史上もっとも競争しがいのある時代だった、とはいえるんでしょうね。
可能性はあるんですから。
そして、家康のいろいろな、ブチ切れ方とかも、
実はあまり縛りがなかったからじゃないかと言われてるんですよね。
松平に対する、今川の態度ってこう言う内容だったようですし。
「ああ、あいつら、いまでこそあれだけどさ、元はさ、、フフ」
ああ、かなり危険な発言ですね。
でも、そこは外してはなりません。
天皇と同じくらい、日本史上では避けられないテーマです。
さて、次回あたりから、ついに江戸時代に入るはずです。
(そうねえ、いろいろあるんだよね。ところで、荊冠旗って、キリストのあれでしょ?そこでクリック!)