案の定好戦的な意見もくるコルビュジェ関係。
「お前は分かってない」
とか言われてんですよ、リアルでも。
だから、言ってんじゃん。
そんなだから、嫌ってんだって!
ようがす、はっきり申し上げましょう。
オブラートに包まず申し上げますとね、
コルビュジェありがたがってる人は、
関係者だけですよ!
もしくは、こじらせたカモな人々。
時代に対して彼の業績は認めますよ。
でもね、一個人である私さえも、
屈服させるものがないんですよ、
コルビュジェには!
好きか嫌いはともかく、
いいか悪いかもともかく、
日光東照宮に文句付ける人はいませんよ。
モン・サン=ミッシェルもそうです。
微妙なところでしょうが、ガウディもそうでしょう!
仮に、私が無知蒙昧な輩であって、
コルビュジェの「不問」性さえ分からぬとしてです。
私ごときも屈服させられぬものを、
有難がってるのは、どうなんですかね?
エッフェル塔ができる時、
パリ市民はこぞって反対したそうですね。
太陽の塔ができたときもそう。
でもね、これらは、
明らかに愚民をも屈服させたわけです。
力があったわけです。
今となっては、パリにも万博公園にも、
なきゃ困るぐらいの風景です。
でもねえ、ないんですよ。
あんたの崇めてるコルビュジェにはね!
彼の人格や一生は、様々な批判もありますけど、
そんなことはいいんです。
芸術家が人格で評価されてはなりません。
でもね、最大の問題は、つまらないこと。
そして、そのつまらなさを有難がって、
さらに、劣化コピーを有難がった建築家と公共団体。
さらにメディアと、かわいそうな洗脳された客たち。
つまらないのに。
そりゃね、
どの世界にも神格化された人や思想はありますね。
でもね、それは閉じた狭い世界だけの話でっせ。
と、私は言いたいわけですね。
屁理屈こねまわして、他人の褌で踊ってりゃあ、
そりゃそれで楽しいでしょう。
その世界で名が売れるかもしれません。
そんなものをぶっちぎって、
有無を言わせない力のある建築もありますよね。
ミースにはあるでしょう。
イームズにさえありますよ。
ところが、コルビュジェにはこれがない。
こう思うのは私だけでは無いようで、
以下有名所を。
まさにこれ。
カッコよくないのでありますな。
次の引用は、もう少し堅くいきます。
芦原氏は、コルビュジェに一定の肯定的評価のあと、こう記しています。
コルヴュジェの建築においては、建物と建物との間の空間にゲシュタルト質が存在しない。
であるから、この建築群からは、街並みのコンテクストのようなものが生れてくる機会はほとんどない。
建築の構成が幾何学的で表現が明快であればあるほど、
非幾何学で不明確なものはその存在がゆるされず、空間は明解であるかわり、
非人間的なものとなってくる。
私はこのコンプレックスに存在する建物が美しくそびえていればいるほど、
なんともやるせない気持ちにならざるをえないのであった。
また、この建築に入ってみると、どれもこれも表現の幾何学のための建築であって、
とうてい人間のための建築―「住むための機械」-ではなく、
「見るための彫刻」であることに思い至らせられたのである。
芦原氏がすごいのは、それを言ってもいいのでしょうか、
的な根本的なことを、明確に書いていることです。
近代建築が現在迷路に入ったのは、
コルビュジェの理論には普遍性があるように一見みえたにもかかわらず、
一方では強いといえよう。
その上、打放しコンクリートという一見永久的に見える材料が、
全くむごたらしいほど耐久力がなく、
あばら屋になることは、いかにも近代建築の理論的風化と、
不思議に一致しているのも象徴的である。
私が思うに、コルビュジェ最大の問題は「批判されないこと」です。
特に日本ではね。
コルビュジェ好きな人は、批判されると困ることでもあるんでしょう。
コルビュジェの有名な教会建築の「ロンシャンの礼拝堂」
行ってみりゃあわかりますけどね、
記帳の半分は日本人です。
つまり、分かりやすいんでしょうね。
変わったことやってるイケテル感じが!
コルビュジェ好きが、どうこう思うのも、
それはそれでご自由。
業績も素晴らしいです。
その意義も理解できます。
でも、単純に思うんです。
かっこ悪い、と。
(案の定いやがったね。カルト信者みたいな人。でもね、いいの。お気軽にクリック!)