本日バスに乗っておりました。
乗ってすぐに気づいたんですが、
ある爺さんが、立っているお客さんにしつこく話しかけていたんですね。
その爺さんは、もちろん優先座席に座り、
そこそこ混んでいる車内で足を組んでいました。
相手は大人の男性でしたので、まあ私は知らぬふりをしていたのです。
別にトラブルでもなさそうでしたしね。
もうね、爺さんがうるさいわけです。
男性も相槌うってるんで、また調子こいてしまったんでしょう。
わずかの時間に、わたしその爺さんと男性の、
プロフィールに詳しくなってしまいました。
男性は40歳で、会社員で、休みだったらしいんですね。
爺さんは、来年70歳で、元教師らしいんです。
かつては、革命を目指した、根っからのリベラルなんですって。
世の中のあらゆる差別を許せなく、
虐げられている人々のために、いつも闘っているそうです。
差別は、された側の言い分が100%正しくて、
言う側に悪意なくても、許さないんですって。
言葉狩りと非難するのは、差別主義者の論理でしかなくって、
そういうのは、SNSで喧嘩売ったり、晒したりするんですって!
干支はネズミらしく、来年厄年らしいです。
それが、闘士としての、
使命なんですって!
それが、自分の青春への、
ケリのつけ方なんですって!
この間、わずか数分ですよ。
爺さんは、別に酒臭いわけでもありません。
精神を病んでいるような風体でもありません。
ボケているのでもないようです。
どちらかというと、しゃれた格好しています。
話も、内容はともかく、論理的です。
ただ、なにかがおかしい風景です。
そりゃそうですよね。
相手は通りすがりの、気のいい男性で、
たまたまそこにいただけの人なんですから。
男性は我慢の限界が来たのか、
それとも、もともとそこで降りるつもりだったのか、
爺さんの喋りが絶好調の時に下車しました。
私は、やれやれ、と思いながら窓の外を見ていたんです。
ガラスに映った、私の後ろの席の親子に気付きました。
普通の母と娘です。
でも、そのお嬢さんは、明らか先天的と思われる容貌の崩れがありました。
不憫でしょうけど、仕方のないことです。
私はじろじろ見ないようにしました。
その親子が、何かを楽しそうに話しながら、
下車するために爺さんの前まで出たんですね。
そうすると、その爺さんが正義のために闘い始めたんです。
あらゆる差別や不幸を見逃せなかったんでしょうね。
「お嬢ちゃん、その顔どうしたんや?」
「黙ってやんでもええ!お母ちゃんに殴られたんか?」
「それやったら、今ここで言いな!」
「おっちゃんが闘ったる!」
一気にまくしたてました。
車内に、やり場のない空気が立ち込めました。
お母さんが毅然とした態度で、いいました。
「生まれつきです。病気です。お気遣いありがとうございます」
強き者、汝の名は母、です。
親子はバスを降りてゆきました。
爺さんは、気まずい表情をするでもなく、
「あっ、そう」
と言っただけです。
もちろん、謝罪もありません。
青春にケリをつけるため、差別や虐げる者を探し、
闘争を挑むことに、正義を感じてたんでしょうか。
爺さんは、スマホをいじりながら、口笛を吹き始めました。
その曲を、私は知っていました。
やるせなく。
ただただ、やるせなく。
私の降りるバス停が来ました。
バスを降りて、私は考えました。
どうすべきだったのかを。
答は出なかったので、ここに書くことにしました。
ただ、あの親子に何かいいことがあるように、と思っただけでした。
彼は、私が教育を受けたころに、
きっと教育現場の最前線にいたはずです。
老人を殴るべきだったのでしょうか?
そうではないでしょう、きっと。
諭すべきだったのでしょうか。
無理でしょう。
せめて、近づいて来ている嵐が、親子の記憶から、
それを忘れさせるものであってほしい、と思っただけでした。
(正義を口にするほど、卑しいことはないですね。「卑しい」とか言うと、その言葉自体差別だって言うんでしょうね。今回アフィは無しです)