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大真面目に、レイプについて考えてみよう。 その2

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レイプを考えることは、とても知的な作業です。

感情的なものを排して、レイプとは何なのかを考えるわけです。

我々はそれをどう理解すべきなんでしょうか。

けっこう、危険なテーマですけどね。

 

ちゃんとやらないといけない気がするんですよ。

なんとなく。

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これの続編になります。

 

 

暴力というもの

人間が暴力の誇示によって、他者を支配できる事は明白です。

その繰り返しに寄って、やがて暴力さえ必要ない程、

自分で考えることを破棄させることも、実際可能です。

 

それの世界的な教科書とも言えるのが、これですね。

 

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

 

 まあ、言うまでもないくらいに、名著です。

 

ただし、これを読んで、

人間性の最後のかけらはうばえない!」

とか系の、尊厳とかを思う人は、

あまり思考に向いていないのだと思います。

 

そう言う人は、最初から答えを出しているのです。

思考は、新しい世界に入る方法ですので、答えを出している人には、向きません。

 

この本がすごいのは、フランクルがその渦中で、

もしくは回想しながらか、冷徹に記録している事です。

非常に淡々とした記録ですので、

こちらも淡々と人間やってるのがいやになります。

 

暴力は、あらゆることを可能にすることを記した、すごい本だと思います。

 

それほどの暴力ではなくとも、暴力の基本姿勢と影響はあまり変わりません。

前回書きました、「ほのめかし」がいい例だと思います。

ほのめかす方は、意識さえしていないかもしれません。

それは、その人が、結果的に暴力を肯定する、

もしくは利益を獲得する立場にいるからです。

 

よって、大きな暴力によってなされた行為は、

思考によって扱うには、ちょっと無理があると思うのです。

小さな暴力によってなされた行為は、

当事者もそう気づかない事もあるように思われます。

 

でも、それでいいんでしょうか?

 

身体の属性について

前回、この本を根拠にして

 

強姦の歴史

強姦の歴史

 

 女性の身体は、だれのものだったか、について書きました。

分かり辛いという意見もいただいたので、もう少し詳しく書きます。

 

自分の身体が、自分のものであったのは、

世界的な先進国でも、せいぜいここ数百年なんです。

だれか、持ち主がいたわけです。

 

ここ難しいですが、ついてきて下さいね。

これを読んでおられるあなたの身体は、誰かの資産でることが、

長年当たり前だったのです。

 

そうでないと、逆になんでもかんでも、

貴方の身の上におきたことは、あなたの責任になってしまうわけです。

所有者がいると、その人の責任にできたわけです。

 

ここらあたりが、ちょっと難しいですね。

 

それで、何千年と問題が(すくなくとも表面的には)起きていなかったわけです。

 

では誰のもの?

まあ、いろいろあるんですけどね。

最終的には、神のもの、で理屈は通るわけです。

我が国の、明治から敗戦までの憲法は、

第日本帝国憲法ですが、そこには臣民としての国民が規定されています。

極端な言い方をすれば、天皇のもの、に抵抗がなかったとも言えます。

 

良い悪いではなく、そうであった、という点に留意して下さいね。

批判じゃありませんから。

こういう雰囲気は、自然と染み渡るものです。

案外身近な話しになるでしょ、そうすると。

 

ここには、実は救いもあるのです。

その一例を挙げます。

 

中世の非人と遊女 (講談社学術文庫)

中世の非人と遊女 (講談社学術文庫)

 

 日本中世史のスーパースターと呼んでも良い、

網野喜彦の、絶頂期に書かれたアグレッシブな本です。

この中の第二部の3で、「旅する女性たち」という項目があります。

 

これがなかなか興味深い。

中世に、女性が一人か、もしくはわずかな下僕だけで旅をしている、

文章や絵のことが書かれています。

 

何も、当時劇的に治安が良かったわけではありません。

むしろ、悲惨であったと言っても良いでしょう。

そして、やはり一番の危険は、強盗と強姦なわけです。

ならば、なぜその記述が多いのかを、

これを、解明したのが、上記の本と言う事です。

 

網野が読み解いたのは、所有者の視界から消えたとき、

その属性は「誰のものでもない」ものになった、

というコペルニクス的展開です。

 

誰のものでもないんだから、何をされたって気にしない。

ならば、かなりの確率で、殺される事もない、ってことのようです。

 

この、「誰のものでもない」ってのは、当然本人のものでもないわけです。

よって、身の危険は「それほども心配要らない」となるわけです。

 

相当、ぶっ飛んだ解釈ですが、なるほどと思わせる力のある話しです。

そうなると、女性がなんとなく妊娠しても、父親は問われないわけです。

その感覚から、日本の桃太郎やかぐや姫伝説も成立すると、

網野は読み解いています。

 

なるほど。

 

では今は、身体は誰のものか?

もちろん、それは身体の持ち主そのものである、

各自「私」のものです。

 

これに対して、私は本当にそうだろうか?と考えるのです。

私たちの、パートナーがレイプされたとしたら、

相手の傷ついた気持ちに最優先で寄り添えるでしょうか?

 

私は自信がありません。

怒りに振り回されると思います。

では、その怒りの源は?

 

多分所有感でしょうね。

これ、おかしな話しなんです。

自分が侵害されたような気分になるのは、

被害者に共感しているからではないってことですからね。

私たちは、もしかしたら、現代においても、

誰かを所有しているイメージがあるのかもしれません。

 

この所有感は、実は日本では民法で保証されているのをご存知ですか?

多分、先進国では日本だけです。

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結婚してんだから当たり前!

ってことはありません。

建前では、個人は誰かの所有ではないので、

他者がそれをつまみ食いしても、損害は発生しません。

 このあたりも、実は日本のあやふやにしておく特性かもしれません。

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ここで書きました、なし崩し的な世界ではないでしょうか。

 

まとめ

上記の書籍で指摘されている事柄と、

現代の我々がイメージすることとは、

思っているより差はありません。

 

しかし、人間の意識は常に進化してきました。

少なくとも、変容はしてはきました。

 

己の肉体が、己のものであり、

それを他者も完全に容認できる日が、

いつかくるかもしれません。

 

いえ、そうであらねばならないのだと、

と私は思うのです。

これは、思考の結果です。

 

そうでなければ、私たちは、所有を目指して、

気づかぬうちに、悲劇を作るのかもしれません。

 

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(きっと、この手の話しは嫌がられるだろうけど、まけねえぞ!そこでクリック!)

 

異形の王権 (平凡社ライブラリー)

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東と西の語る日本の歴史 (そしえて文庫 (7))

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