私くらいになっても、
チョコレートをいただくものなのです。
今更ドキドキすることもありませんが、
寒のきつい日の午後に、
ついしかめっ面になるような時。
コーヒーを淹れて、チョコをついばむと、
ザミチャー!
ザミチャーチェリヌゥイ!
と、ハラショー以上の言葉を使ってしまうのです。
残念なことに、ロシア語はちんぷんかんぷんですが、
清原先生に
連れて行ってもらったショーパブで、
多少のロシア語は学んだのです。
美しい横顔、淡いブロンド、
頭の中は空っぽのアリューシカから。
では、私のチョコレートの感想を、
抒情詩的に行ってみます。
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ロシアのチョコレートは、
正しく異国の味がした。
この世界で、異国は既にない。
しかし私は感じた。
1990年の上海。
深夜の路上で食べた月餅を、
ロシアのチョコレートは、
私に思い出させた。
寒くて乾いた空気の中で、
練炭で煙る黄色い街灯。
湯気が甘い香りをまき散らし、
川沿いのその店は、
深夜に月餅を出していた。
あの上海も、とうに無い。
私の上海は消えたのだ。
私のモスクワが、
それより早く消えたように。
しかし、そのチョコレート、
確かに異国の味がした。
聞きなれぬ異国の言葉、
まるで小さな秘密を守るがごとく、
囁くように話される上海語は、
フランス語のような響きが優しい。
人々はまだまだ貧しく、
綿入りの支那服を着ていた。
ジャスミン茶を飲みながら、
通じない会話を楽しんでいた。
シャシャノン、と上海語で
お礼を言いながら、
お茶の湯気を見ていた。
甘いお菓子は、
その記憶の残骸を、
人の記憶や社会より、
僅かながら永く、
閉じ込めるのかもしれない。
だから人々はお菓子を求めるのだ。
失われた記憶への弔辞として、
それらを愛するのだ。
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なーんて、おセンチになっちゃってますね。
まあ、たまにはいいじゃないですか。
日差しが、すっかり春ですね。
風は冷たく、陽は強い。
もう、梅は満開を過ぎたであろうか。
そんなことを思ったりしておりました。
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