ジューンブライドの6月ですね。
今日の神戸は素晴らしいお天気。
そうですね、こういう日に結婚式やるのはいいでしょうねえ。
まさしく「六月の花嫁」にふさわしい、日差しと気温です。
ではそんな中、前回からの続きをやってみましょう。
もちろん、今日も「考える」ことに特化して、
善悪是非は問いません!
ここ、お間違えの無いように。。
そうでないと、暗い話になりますものねえ。
「愛」と「結婚」は矛盾はしないけれども、異なる概念だということ。
このお話でしたねえ。
一体いつごろからなんでしょうねえ、
我が国で愛とか言い出したのは。
ちょっと歴史に詳しい方であれば、
直江兼続が「愛」と書いた兜を被っていたじゃないか!
とか言いたくなるんでしょうねえ。
甘いです。
あの時代の「愛」という言葉は、
LOVEとは全く関係ありません。
現代語に訳すと「エロエロ!」ぐらいで正しいですね。
戦国時代の武将ってのは、
いかにとんでもないことを装飾するかに、競ってたわけです。
大河ドラマを信じちゃいけません。
カッコイイじゃないですか、「エロエロ!」と書いた兜で戦うってのも。
これこそロマンですね。
じゃあ、日本では誰かを大事に思いやる、熱い気持ちはなかったの?
となるわけですが、
もちろんありました。
その感覚は、「想う」「慕う」ですし、
継続的な感覚では「情」でしょうね。
この「情」がさらに厄介です。
なにせ、
ともに時間を過ごすうちに、何となく芽生える複雑な心境、
なわけです。
ではなぜ今、「愛情」と使われるんでしょうね。
これは、明治の時代に、キリスト教が入ってきてからのお話なんですね。
汝の隣人を愛せよ、とかって話なんですね。
おっと、戦国時代にもキリスト教はあったじゃないか!
と思うあなたは甘いです。
あの時代、「love」は「御慈しみ」とい単語で訳されてたのです。
実際は、loveじゃなくて、ラテン語かスペイン語でしょうけれど。
いいセンスしてますね、当時の才人たちは。
「汝の隣人を御慈しみたまえ」
かっこいいですねえ。
英語で言うところの「LOVE」を訳すにあたって、
なぜなら、あれってキリスト教文化圏の話ですから、
神との「契約」の話なんです。
「あんたを最高として認める」
「よっしゃ、守ったるわ」
こういう契約です。決して無償ではないのです。
この無償ではない感覚が「愛」なのです。
ちょっと見えてきましたね。
ですので、結婚という「契約」とは矛盾しないのです。
でもね、ここで経済的なことは一切関係ないので、
そこが否応なしに絡む「婚姻」とは異なるわけです。
前にもお話しましたが、婚姻は「家」という会社をグループ化して強くすることです。
ところが、それだけではどうにもナマ臭いので、
「結婚」という概念を産んだのですね。
神様に誓うということで。
でもね、ここでこの神様は日本の神様じゃないんですよ。
日本の神様は、言葉で言わなくてもいいじゃないですか。
初詣で手を合わせる時、ブツブツ言ってる人いないでしょ?
でもねえ、一神教の世界では、ちゃんと言質をとられるわけです。
「あんたを最高として認めるわ。そのあんたに誓うわ、私この人と夫婦やりますわ」
「よっしゃ、ちゃんと聞いたで、認めたるわ」
あんまり相手のこと関係なくないですか?
そう、実は関係ないんです。
ここがポイントですね。
相手には誓わないんです!
なんか、どんどん、それでいいんですか?的な話でしょ?
こうなってくると、
どうも相手がどういう人だろうと関係なく、
神様に言ったからできるだけ守る、ってことになります。
ですので、理屈上は、
相手が同性だろうと関係ないわけです。
相手も神様に言質をとられていいなら、
ということになります。
こんないっちゃってる感覚に、
識字率の高かった明治の日本人がついていくわけもなく、
ウヤムヤになって現在の結婚があるわけです。
いやあ、何と申しましょうか、
なんか釈然としませんが、
まあそういうことみたいです。
7回も続けて書いてきたので、
わたしもちょっとうんざりしてきました。
機会があれば、またそのうち書こうと思います。
ジューンブライドに幸あれ、と素直に思いながら、一旦終わります。
ふう、やれやれ。。